自己とは、自分自身のことであり、自分の心を意味します。死の解決を求めることを求道といい、求道は自己を知る道です。

〇自己を知る重要性

〇人間は「自分」がわからない
・「自分の〇〇」であって自分そのものではない
・肉体が変化しても「自分」は変化しない

〇自己を知る方法
・自分から見た自己
・他人から見た自己(他己)
・科学から見た自己
・仏法から見た自己

〇仏教は真実を説いているだけ
・如来
・仏教でなくてもいい

〇仏教は自己を知るためにある
・より深い心を知る
・八つの心
・阿頼耶識
・心理の真理

〇何をするか
・無常観
・罪悪観

 

〇自己を知る重要性

 自己を知る重要性は古くから多方面で教えられています。

哲学者のモンテーニュは「世界でもっとも偉大なことは、己自身を知ることである」と言いました。

「朝には四本足、昼には二本足、夕方には三本足の生き物は何か?」

これはギリシャ神話に出てくる有名なスフィンクスのなぞなぞで、答えられなければ食い殺されるとされています。答えは「人間」ですが、これは遠まわしに人間に対して「人間とは何か」ということを聞いており、「人間でありながら人間を知らなければ生きている価値がない」と教えているのです。

 

〇人間は「自分」がわからない

では「自分」とは何でしょうか?たとえば、「頭の先から足の先まですべて自分だ」と思っている人は多いですが、果たしてそうでしょうか。

・「自分の〇〇」であって自分そのものではない

身体のあらゆる部位は「自分の手」とか「自分の足」というように、「自分の」という所有代名詞がつきます。「自分の手」や「自分の足」であって、自分そのものではありません。「自分の手」や「自分の足」と言わしめている「自分」とは何でしょうか。

 

・肉体が変化しても「自分」は変化しない

「昔の自分」と「今の自分」とでは、肉体的に変化があります。細胞レベルではまったく違うといっていいでしょう。

しかし、どんなに整形や移植手術をして肉体が変化しても、「昔の自分」と「今の自分」とでまったく別個の人間になることはありません。たとえば、A君がどんなに変わってもB君になるということはあり得ず、A君には変わらない「自分」という主体なるものがあるということです。

智度論に次のような話があります。

ある旅人の腕を鬼が引きちぎり、別の死んだ人間の腕をその旅人にくっつけました。同じように、足、胴、頭と次々に引きちぎってはくっつけを繰り返し、旅人の体と死骸とがすっかり入れ替わってしまいます。恐ろしい目にあった旅人は、こう自問します。

「親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか、自分ではないのか」

こう考えるとわからなくなってくるでしょう。

「この話は『私』ということの不可解さをうまく言い表している。このように考えだすとまったく解らなくなる。ここでは体のことになっているが、たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない」(河合隼雄/元文化庁長官)

ある罪を犯した少年が、次のように主張して検事を困らせたという話もあります。

「時間が経てば、人間の細胞は全部入れ替わりまったく別物だ。心もそうだ。その別物の身心が犯した罪を、なぜ今の自分が責任をとらねばならないのか」

結局、この検事は少年を納得させることができなかったといいます。

また、生物学者の福岡伸一(青山学院大学教授)は次のような話をしています。

「生物学的には、厳密な本人認証ができないんです。私たちは銀行やお役所に行って免許証を見せたりサインしたりして本人であることを証明しているわけですが、実はそんなものは何の証拠にもなりません。指紋や網膜などのパターンも実のところは常に少しずつ変わっているわけで、自己同一性とか自己一貫性とかは、生物学的には何の根拠も基盤もない。比喩ではなく現実に、自己は絶え間なく変わっているわけです。極論すれば私たちは、あらゆる瞬間に死んで、あらゆる瞬間につくりかえられているということになる」

このように、人間は「自分」を知っているようで知りません。

「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは 己なりけり」という古歌の通りです。

 

〇自己を知る方法

自己を知るとは、正確に言えば客観的な自己を知るということですが、その方法にいくつかあります。

・自分から見た自己

自分で自分を評価するという方法があります。しかし、この方法だとどうしても主観的になってしまいます。「灯台下暗し」という諺もありますが、目で目を見ることができないように、あまりに近すぎてわかりづらいのです。

たとえば欲目が働きます。第1巻でも少し説明しましたが、膨大な罪悪を造りながら、人間は自分をそんなに悪い人間ではないと思っています。多くの動物を苦しめているのに、「自分は生き物を可愛がるいい人間だ」と自惚れているのです。世間的にどれほど極悪人とされている人でも同じです。

ヒトラーは「未来の人々は我々に対して、永久に感謝を忘れないであろう」とユダヤ人を絶命させる計画を人類に対する貢献として誇りました。

ルドルフ・ヘスも次のように語っています。

「私自身が、抑留者の一人でも、虐待したり殺したりしたことは一度もない」

「世人は冷然として、私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。———けだし、大衆にとって、アウシュヴィッツ司令官は、そのようなものとしてしか想像しえないからである。そして彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心をもつ一人の人間だったこと、彼もまた、悪人ではなかったことを」

抗争相手をマシンガンで容赦なく殺したギャング王アル・カポネは、「俺は今まで社会福祉のために随分寄付をしてきた、なのに世間の奴らは俺を極悪人呼ばわりする」と嘆いたといいます。

以前、ルアー作りの職人が「自分の仕事を誇りに思う」と笑顔で語っているのを見たことがあります。殺生の道具を作りながら誇ってしまう、それが欲目です。

仏教では、人間には「慢」という煩悩があると説かれます。煩悩とは、書いて字の如く人間を煩わせ悩ませる心です。慢は主に次の7種に分かれます。

・慢

人を見下し、自惚れる心

 

・過慢

自分と同等の人に対しては自分のほうが優れていると思い、自分より優れている人に対しては自分と同等とする心

例:自分とスキルが同じぐらいの人を見て、「スキルだけでなく、ルックスもいいから総合的に自分のほうが上」と思うetc.

 

・慢過慢

自分より優れている人を見て、その人より優れている面を見つけようとする心

例:自分よりスキルが上の人を見て、「ルックスは自分のほうがいいから総合的に自分のほうが上」と思うetc.

 

・我慢

我が強く、謙虚でない心

 

・増上慢

知り得ていないのに知り得たと思う心

例:仏教を聞いて「その話は知っているから聞かなくていい」と思うetc.

 

・卑下慢

卑下して自慢する心

例:「私は悪い人間です」と言いながら、心では「私ほど謙虚に自分を直視している人間はいない。だから私は偉いんだ」と思うetc.

 

・邪慢

汚点を自慢する心

例:「泥棒が盗みの巧みさを誇る」「不良だったことを誇る」etc.

 

この心理を裏づける研究もあります。

実際の自分の写真と、デジタル修正して魅力をアップした自分の写真を並べ、どちらが実際の自分の写真か選ばせたところ、75%以上が後者を選んだといいます。

また、心理学者のK・パトリシア・クロスによれば、大学教授の94%が、自分を平均以上の教師であると考え、また68%が、教師としての優秀さにおいて、自分が上位4分の1以内にランクされると考えているといいます。

 他にも、大きな交通事故に遭った経験のある人たちが自分の運転能力を高く評価していたなど、この種の実験は数多くなされています。

「この種の実験をかいつまんで言うと、被験者は、結果がよければ、それを自分の能力のおかげと考え、悪ければ、自分にはコントロールの及ばない外的要因のせいにしようとする」(ロバート・クルツバン/ペンシルベニア大学准教授)

 

「研究につぐ研究が示す通り、大多数の人は、運動能力から社交術までさまざまな面で自分が平均以上だと考えている」

「平均的な人が、自分は平均的な人よりよい行いをたくさんするし、悪い行いはあまりしないと信じているというのもその1つだ」(ロバート・ライト/科学ジャーナリスト)

あるアメリカの研究では「成功の功績は自分のものとするが、失敗の責任は他人に押しつけがち」など、人々に共通してみられる8種類のバイアス(偏見)を挙げています。8つのバイアスすべてについて、平均的なアメリカ人は「平均的なアメリカ人は自分よりそのバイアスの影響を受けやすい」と答えています。クルツバンはこの結果を、「私たちは、『自分が平均より上だと考えるバイアスが自分にはかかっていないから、自分は平均より上だ』と考える」とまとめています。

すべての人間は慢の塊です。頭では自惚れ強いとわかっても、腹底では全然わかっていません。心から自分をバカな人間だとは思えないバカさ加減があるのです。

 

・他人から見た自己(他己)

また、他人が自分を評価するという方法があります。しかし、これも本当の自己を見せてはくれません。

たとえば、人間は他人を評価する際、「自分の都合」を入れてしまいます。つまり、自分に都合がいい人を「いい人」だと思い、自分に都合が悪い人を「悪い人」だと思ってしまうのです。

アインシュタインは次のように言いました。

「私が役に立つかぎり、人々は私におもねります。でも、自分たちが賛成しない目標のために力を尽くそうとすると、自分たちの利益を守るために、たちまち誹謗中傷に訴えるのです」

田中角栄はロッキード事件で日本中から非難されましたが、票集めのために富をもたらした新潟県民にとっては英雄です。

人間は自分に対して、実際よりも魅力的なイメージを抱いていますが、そのバイアスは友人に対しても働いているようです。実際の友人の写真はどれか選ばせたところ、やはり加工されて実際よりも魅力的に写った写真を選んだといいます(自分の写真は13%、友人の写真は10%、面識のない人の写真は2.3%、それぞれ魅力度を上げた写真を選んだ)。

人気アイドルグループ乃木坂46の生駒里奈は、学校でいじめを受けていたことを告白していますが、乃木坂に合格すると周りの人間の態度が一変したと語っています。

「学校では最底辺のスクールカーストの底辺にいたけど、テレビで人気がでたら手のひらを返したように皆近づいてきた。人間って若い時からこうなんだと思って人が怖い」(生駒)

大阪市長などを務めた橋下徹も次のように語っています。

「政治の世界、ちょっと注目されている時にはみんなが来る。でも、僕も当然たたかれてヒューって下がる。あっという間にみんな去って行きますからね」

「それまで大阪都構想の住民投票の時には『命をかけて橋下さんを支えます!』と涙を流して言ってるのに負けた瞬間、サーって・・・・わっかりやすい。わっかりやすい」

同じ人が、自分の都合によって、いい人から悪い人になり、また悪い人からいい人になり・・・、とコロコロコロコロ変わっていくのです。コロコロ変わるから心という説もあるぐらい、人間の心は変化しやすいものです。この自己中心的な人間心理を一休は、「今日ほめて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも 嘘の世の中」と詠みました。

 

・科学から見た自己

先の2つの方法は古くからいわれていますが、科学から見た自己も期待されます。しかし、第1巻で説明したように、ようやく心に目が向き始めたという段階で、まだ心の一面しか捉えられておらず、まだまだ長い道のりがあるでしょう。

 

・仏法から見た自己

先に挙げた方法では、どれも真実の自己を見せてはくれません。では、どうしたらわかるかというと、仏教では「仏法から見た自己」が真実の自己であると説きます。法とは、サンスクリット語のダルマの中国語訳で、日本語では「真実」という意味です。

 

〇仏教は真実を説いているだけ

仏教は「仏の教え」と書きますが、仏とは釈迦を指します。

釈迦は35歳で仏の悟りを開き、80歳で入滅しましたが、仏として45年間布教した教えを、今日、仏教と呼んでいます。

その仏教は何を説いているかというと、真実を説いているだけです。仏教は、良い話をしているのでもなければ、楽になる話をしているのでもありません。また、明るい話をしているのでもなければ、真面目な話をしているのでもありません。ただ真実を説いているだけであって、それを良い話だとか決めているのは受け手の勝手な偏見です。

また、仏教で説かれるから真実なのではなく、真実だから仏教で説かれるのです。ニュートンが万有引力を発見したように、元々あった真実を釈迦が発見したということです。もっと正確に言えば、釈迦自身も言っているように、過去の仏が発見して埋もれていた真実を釈迦が再発見したのです。

・如来

仏のことを如来ともいいますが、これは真如来現の略であり、真如とは真理のことです。つまり、仏とは真理を説きに来たり現れた方ということです。

 

・仏教でなくてもいい

ですので、誤解を恐れず言うと、真実を教えていれば仏教でなくても構わないのです。真実は仏教だけの専売特許ではありません。真実をもっと的確に表現している教義があれば、そちらを取るべきです。

この点、人間が作った他の多くの宗教とは大きく違います。人間が作った宗教は、どうしても人間に都合よくできています。たとえば、第1巻ではキリスト教の間違い(天動説)を科学(地動説)が正してきた流れをみましたが、このように人間の直観はよく間違えます(第1巻1.5「心に科学のメスが入る」))

「今では、地球平面説や天動説を信じている人などまずいない。私たちは、知覚を読み違えたことを認識し、それを訂正してきたのだ。それは簡単なことではなかった。その過程を通じて、ありきたりの直観や教会の教えが木っ端みじんに砕かれた。

だが、それは準備運動にすぎない。今や私たちは、時空それ自体、ならびにその内部に存在するあらゆるものを放棄しなければならない」(ドナルド・ホフマン/カリフォルニア大学アーバイン校認知科学科教授)

自然というのは、ありのままに観察すべきで、人間の都合を入れてはならないはずです。真実を追究する学問である科学の批判に耐えられない教えに価値はありません。

その点、仏教は科学の批判に耐えられる教えです。

「なぜ仏教は正しいかという問いに対する私のいちばん短い答えは、私たちが自然選択によって生み出された動物だからだ。自然選択は私たちの脳に傾向をそなえつけた。そして初期の仏教思想家は、利用できる科学的な手段がとぼしい中でその傾向を見極めるというすばらしい仕事をやってのけた。今では自然選択に対する現代の理解と自然選択が生み出した人間の脳に対する現代の理解を踏まえて、この見極めを新たな視点から弁護できる」(ロバート・ライト)

ちなみに、セスは次のような話をしています。

「君たちの観点で言えば、神は人間ではない。だが、人間という段階を通って来た。ここでは仏教の神話が最も事実に近い説明といえるだろう。神は1人の個人ではなく、エネルギーの統合体なのだ」

「キリスト教で言うような、人格を持った個人としての神はいない」

「人類が最大限のストレスを抱え、甚大な問題に直面すると、キリストのような人物を呼び起こすようになる。人類に力を与えるために必要な人格を探し求め、まさにそれにぴったりの誰かを生み出すのだ」

セスは霊体であり、ジェーン・ロバーツという霊媒を通して話をしているとされていますが、ジェーンはキリスト教圏に住んでいるアメリカ人です。セスの話には仏説との共通点が多いのもさることながら(詳しくは第1巻「生まれ変わり」)、はっきりとキリスト教の神を否定し、仏教の神話を支持する点も興味深いです。

「仏教を信じない」という人は多いですが、仏教とは何か、何が仏教で何が仏教じゃないのか、こういった点をはっきりとわかっている人はほとんどいません。

 

〇仏教は自己を知るためにある

仏教で説かれる一切は自己を知るためにあります。このため、仏教は自覚教ともいわれます。

「往生要集」で有名な源信は「夜もすがら 仏の道を 求むれば 我が心にぞ たずね入りぬる」と詠み、曹洞宗の開祖・道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言いました。

阿含経には次のような話があります。

30人ほどの貴族たちが、それぞれ妻をつれて森に遊びに来ました。その中で1人だけ未婚の男がおり、彼は妻の代わりに遊女を連れて来ていました。

ところが、森でうつつを抜かして遊んでいるうちに、その遊女が彼らの財物を盗って逃げてしまいました。それに気づいた貴族たちが、あわてふためいて森の中を探していると、木陰で休んでいる釈迦と出会いました。

「こちらに女が逃げてこなかったでしょうか」

貴族たちが尋ねると、釈迦は「逃げた女を探すことと、汝自身を探し求めることと、どちらが大事か」と言い放ったといいます。

・より深い心を知る

自己を知るということは、より深い層の心理を知っていくということであり、無意識を意識化できるようになるということです。求道することで今までなかった心が新たに生じるのではなく、すでにあったものの自覚できずにいた心が自覚できるようになるのです。

 

・八つの心

心には大きく8つあり、これを八識といいます。識とは心のことです。

 

眼識:視覚

耳識:聴覚

鼻識:嗅覚

舌識:味覚

身識:触覚等

意識:第六識にあたる心で物事を分別したりする心

末那識:第七識にあたる心で阿頼耶識の本当の姿を覆い隠す心

阿頼耶識:第八識にあたる心で最も深層にある心

 

・阿頼耶識

自己を追求していくと、最も深い心であり、真実の自己である阿頼耶識が見えてきます。先ほどの例で言えば、「自分の手」とか「自分の足」と言わしめている「自分」が阿頼耶識であり、どんなに肉体や思想といったものが変わろうが、変わらない主体なるものが阿頼耶識だということです。

第1巻でも見たように、生命は無意識を意識化する方向へ進化していますが、最終的には阿頼耶識を意識化することにあります。

「内を見る目がとらえた統合力は、最も進化した統合力としての共通感覚であるが、その共通感覚によって、今度は、その共通感覚の基盤となっている根源の統合力を意識的にとらえることができる。その意識がとらえた根源の統合力こそ『私』という感覚である」(望月清文)

 

・心理の真理

根本的な人間心理というのは万人共通であり、時代や場所によって変わることはありません。釈迦が生まれた2500年前のインド人であろうと、現代の日本人であろうと同じです。

阿頼耶識が、何よりも優先して知る必要がある深刻な心理であり、たとえば現代心理学で教える心理というのは、優先して知る必要のない浅い心理です。大乗仏教の視点から見れば、心理学は最終的に、この阿頼耶識を発見しようとしていると説いているわけです。

「現代は、唯識が哲学として求めたことの多くが科学的事実として知られている時代でもあります。このことは、唯識にとって、また仏教にとってまことに幸せなことで、仏教は恵まれた時代にあるといえましょう」(泉美治/大阪大学名誉教授)

 

「西洋では仰々しく『無意識の発見』などと言っているが、仏教ではそんなの当たり前のことだったのではないか。仏教の『唯識学』などは深層心理学そのもので、千年以上もたってから西洋で『発見』などと言い立てることもない」

「その『科学性』はあやふやであることがすぐわかります。深層心理学にいろいろな学派があるという事実も、自然科学者の『真理はひとつ』という観点からみると、おかしいと思われるでしょう」(河合隼雄)

また、あくまでオマケですが、根本的な心理を知ると応用が利き、テクニック的なことをいちいち覚えなくてもいいから便利です。

 

〇何をするか

では、自己を知るために具体的に何をしたらいいかということですが、無常観と罪悪観を問い詰めるということになります。「観」は「感」とは異なり、心の眼で見るという意味があります。無常観と罪悪観を問い詰めることが、自己を客観視する1番の訓練になるということです。その理由については、読んでいけばわかるでしょう(特に第3巻と第4巻)。

・無常観

無常を観じるということです。

道元は「無常を観ずるは、菩提心のはじめなり」と言いましたが、無常を観じることは菩提(真実の幸福)を求める心につながります。ちなみに菩提を求める人を菩提薩埵といい、略して菩薩といいます。

 

・罪悪観

自己の罪悪を見つめるということです。

仏教には悪人正機という言葉があります。悪人こそ救われる正しい根機(心)という意味です。仏教で説かれる「悪人」とは、自分の罪悪を自覚して苦しんでいる人であり、反省して罪悪を造らないよう努力している人のことです。

歎異抄には「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な言葉があります。「善人でさえ救われるのであれば、悪人はなおさら救われる」という意味です。

 

闇が深まるほど月は光り輝くように、無常観や罪悪観が問い詰まるほど菩提心が強く生じます。

無常観と罪悪観は別々なものではなく密接な関係があり、求道が進むにつれ2つが1つになっていき、やがて一致します。ですので、どちらか問い詰めやすいほうを問い詰めればよく、無常観が強い人は無常観を突き詰め、罪悪観が強い人は罪悪観を突き詰めればいいのです。ちなみにあくまで一般論ですが、無常観は若い人が問い詰めやすいです。

第2巻の本書と次の第3巻では無常観を、第4巻では罪悪観を主に説明していきます。

第5巻以降の流れについても簡単に紹介しておきます。

第5巻では大乗仏教の根本精神である自利利他について説明します。

第6巻では救い主である阿弥陀仏と善知識について、そして死の解決の境地についても説明します。第6巻までで求道の流れについては一通り説明し終えています。

第7巻からは仏教の知恵を応用し、メンタルヘルス(第7巻)、恋愛(第8巻)、ビジネス(第9巻)をテーマに書いています。

次へ「2.4 聴聞」

前へ「2.2 人間に生まれる有難さ」

 

第2章 死の解決
2.1 死の解決と幸福
2.2 人間に生まれる有難さ
2.3 求道は自己を知る道
2.4 聴聞
2.5 無常の幸福は手段