詳しくは第6巻で説明しますが、死の解決は、文字通り、人間にとって最大の苦しみである死が来ても絶対に崩れない幸福であり、「どんな縁がやってこようが幸福でいられる心」です。

世間一般の幸福は、無常・相対の幸福であり、安心も満足もできない欠点だらけの不完全な幸福です。一方、死の解決は、常・絶対の幸福であり、常に安心・満足できる欠点のない完全な幸福です。

また、世間一般の幸福は不幸になる人を生みますが、死の解決は何もしなくても最高の幸福ですので他と争う必要もありません。

さらに、世間一般の幸福は有無同然であり有っても無くても苦しみですが、死の解決は有っても無くても幸せというまったく逆の意味の有無同然に変わります。

「この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」(大無量寿経)

(訳:死の解決をした人は大きな利益を得、この上ない功徳が備わるのである)

 

「その国の衆生は、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く。かるがゆえに極楽と名づく」(阿弥陀経)

(訳:その国の人々は、一切の苦がなく、ただ楽だけを受けるので極楽と名づけるのである)

 

「永く身心の悩みを離れて楽しみを受くること常に間なし」(浄土論)

(訳:永久に心身の苦悩がなくなり、常に絶え間ない楽しみを受ける)

死んでから救われるのではなく、生きながら救われることを不体失往生といいますが、科学的な証拠は不体失往生が可能であることを示しています。

〇死の解決でしか助からない

たとえどんなに金や権力を持っていても、死の解決をしていなければ、死後は地獄です。逆に、どんなに貧乏であっても、死の解決をしていれば死後は極楽です。

「堺の日向屋は、三十万貫持ちたれども、死にたるが仏にはなり候うまじ。大和の了妙は、帷一つをもきかね候えども、此の度、仏になるべきよ」(御一代記聞書)

(訳:堺の日向屋は大金持ちだったけれども、死の解決をしていないので死んでも仏にはなっていない。大和の了妙は着物1つも無かったけれど、死の解決をしているので死んで仏になる)

「地獄の沙汰も金次第」という諺もありますが、金ではどうにもならないのです。

庄松は御頭剃という儀式を受けに、友人と本山に行った時のことです。法主が次から次へと移り、やがて庄松の前にやってきました。すると、何を思ったのか、庄松は法主の法衣の袖を引っ張りました。そして、「アニキ!覚悟はいいか!」と3回言いました。法主をまともに見たら目が潰れるといわれていた時代です。

儀式が終わると法主は庄松を呼ぶよう言いました。友人は「ああ、こんなことになるならこいつを呼ばなければよかった」と嘆きました。

「この者はバカであります。一文二文の銭さえも数えられません。どうぞお許しください」

法主は庄松に、どうして袖を引っ張ったのか聞きました。すると庄松はこう答えました。

「法主じゃからいうて地獄を逃れることはならぬで、後生の覚悟はよいかと思うて言うた」

それを聞いた法主は「敬うてくれる人はたくさんいるが、後生の意見をしてくれるものは汝一人じゃ、よく意見してくれた」と感謝したといいます。

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第2章 死の解決
2.1 死の解決と幸福
2.2 人間に生まれる有難さ
2.3 求道は自己を知る道
2.4 聴聞
2.5 無常の幸福は手段