世界有数の生物学者、エドワード・O・ウィルソン(ハーバード大学名誉教授)は、人間のあり方に関する問いはすべて、結局のところ次の3つに行き着くと言います。
・私たちは何者なのか
・何が私たちを創り出したのか
・私たちは最終的に何になりたいのか
画家のポール・ゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という題名の絵を書いた後に自殺を図ったといわれていますが、ほとんどの人は人生に目的があることを知りません。
〇目的の重要性
目的もなく、同じ行為を繰り返すというのは苦しいことです。
動物園の檻の中に閉じ込められた動物には、同じ動作を繰り返す「常同行動」がよく見られ、この異常な行動はストレスのバロメーターともいわれています。
また、ナチスが囚人に対して行った拷問に次のようなものがあったそうです。
A地点からB地点まで石を運ぶよう命じます。全部運ばせると、今度はB地点からA地点まで元通りに運ぶよう命じます。この一連の作業を延々と繰り返すよう命じたところ、気が狂う囚人が続出したといいます。アウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスは次のように語っています。
「私は、刑務所の同囚や、その後の強制収容所でも、多くの抑留者たちと労働について話しあった。それについて、誰もが、鉄格子の中、鉄条網の背後の生活は、ずっと作業がなければ耐え難いもの、まさに最も苦しい刑罰であるだろうと確信していた」
ヘスはまた、釈放される見込みのなくなったユダヤ人について、「この心理的な破滅は、肉体的な破滅を促した。彼らはもう生きる意志をもたず、すべてに無関心になり、ほんのちょっとした肉体的なショックでも、あっさり死んでしまうようになった」とも語っています。
他にも、「賽の河原」など、目的もない作業がいかに苦しいことかを教えた話は数多くあり、目的がいかに重要であることかを主張する人も数多くいます。作家のヘンリー・デイヴィッド・ソローは、「勤勉だけが取り柄なら蟻と変わるところがない。なんのためにせっせと働くかが問題だ」と言いました。
人生の目的を持つと心身に良い影響を与えることがわかっています。サウス・フロリダ大学の研究によれば、「目的意識は、忍耐力、寛容さ、楽観性、慎み、成熟した自己意識、そしてより円満な人格の統合を促進する」といいます。
「今でしょ!」で有名な林修は「努力はベクトル」と言いました。ベクトルとは「方向」と「大きさ」の2つの意味を含めた言葉です。
〇目的が無常の幸福になっている
しかし、先に説明したように、世間一般の人は、その目的が無常や相対といった致命的な欠陥のある幸福になってしまっています。周りを見渡せば皆、忙しなく「何か」に向かって動き、「何か」について話し合っていますが、その「何か」はすべて無常の幸福です。
・人間は2人だけ
中国に古くから伝わる次のような話があります。
清の時代、皇帝が天安門の下を通る数多くの人を見て、「どれくらいの人がいるのか」と宰相に聞きました。すると宰相は「2人です」と答えました。
「私が見ただけでも何百人といるのに、2人だけとはどういうことだ」
皇帝が怒ると、宰相は「はい、名利の2人だけです」と答えたといいます。
どれほど多くの人がいようとも、名誉を求める人間か、利益を求める人間の2種類しかいないのです。
・人生は同じ作業の繰り返し
人間の一生を見るに、先ほどの動物園の動物と似たようなものであることが見えてきます。
「人生は台所と便所の往復」とか「人生は布団の出し入れ」などといわれるように、無常の幸福しか知らない人生はゴールと呼べるものがない人生であり、同じような作業の繰り返しです。頓智で有名な一休は「人生は 食て寝て起きて クソたれて 子は親となる 子は親となる」と詠みました。
フランスの小説家、アルベール・カミュの随筆に「シーシュポスの神話」というのがあります。
地獄に堕ちたシーシュポスは、大きな岩を山頂まで運ぶという刑罰を受けます。ようやく山頂まで運びますが、その瞬間、岩は転がり落ちてしまい、また最初からやり直しとなります。これを休みなく延々と繰り返すのです。
著者のカミュは「無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はない」と言い、この神話は「人間の一生を描いているのだ」と言います。
・何やっても何も意味がない
死がある以上、無常の幸福を目的とした生き方は、何をやっても何の意味もありません。意識するとしないとにかかわらず、「今のまま努力し続ければ、きっと苦労が報われるはずだ」と信じているでしょうが、骨折り損のくたびれ儲けで終わってしまうのです。
意味がないと思わない人も多いでしょうが、それは死が遠いからです。後述しますが、死が近くなれば、ビートたけしが言ったように「人生ってなんだろうって感じるね。なんの意味もないことがよくわかる」のです。
「人間の営みあへる業(わざ)を見るに、春の日に雪仏を造りて、金銀珠玉を飾り、堂塔を建てんとするに似たり」(徒然草)
(訳:人間の一生は、太陽が照っている暖かい日に雪だるまを作って、豪華な装飾をし、堂塔を建てているようなことをしている)
「雪だるま」は人間をたとえており、「装飾」は人生で手に入れるすべての幸せをたとえています。人生全体で俯瞰すれば、この通りの姿が見えてきます。
「人間とは何か?愚かな赤ん坊である。無駄に努力し、戦い、いらだち、何もかも欲しがりながら、何にも値せず、小さな墓を一つ得るだけだ」(カーライル/歴史家)
「高官や名声は、人生を犠牲にして獲得される。生涯の終末に至った時、何のなすところもなく長い間多忙に過ごしたことに気づいても、かわいそうに時はすでに遅い」(セネカ/哲学者)
「誰にでも、必ず死は待っている。自分の真の所有物など何一つ存在しない。どんな名誉も権力も豪邸も自己の肉体も幻と化して、時の彼方へ消え去っていく。『この世』は無常きわまりないバーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界なのである」(コンノケンイチ/サイエンスライター)
城西国際大学教授の望月清文は、これまでの研究(詳しくは第1巻「望月進化論」)を踏まえ次のように語っています。少し長いですが、重要なところなのでそのまま紹介します。
「地位、名声、富といったものは、人生でも何でもない。それらをあえて表現するならば動物的営み、自分の中に息づいている動物としての営みである」
「人生とは、人間として生きることであり、意識が人間として潜在的に持つ能力に明かりを灯そうとする営みである。動物的欲求を満たそうとして努力した生き方は、動物に人生がないのと同じように、人間にしてもそれは人生ではない。単なる記憶が残っているだけだ。人間だけに与えられている人生、それは、人間的欲求を満たすためにひたすら努力することの中にある」
「日々繰り返される刹那的な快楽の中で、ひとときの幸福感に浸ることはできる。しかし、その幸福感は、その浸っている瞬間から漏れだしている儚い幸福感でもある。それは、穴のあいた器で幸せという水を手に入れようとしている営みにも似ている。器が涸れてしまった後のむなしさがわかっていても、そのむなしさを癒すかのようにまた新たな幸せという水を求めて動き回る」
「快楽の後に訪れる空虚感が、快楽を求めることよりも、自分の心の器の穴を埋めることへ向かわせようとする自然の働きかけであることに気づくこともなく、その空虚感を癒すかのように、また新たな快楽を求めて動き回る。ますますエスカレートする快楽への衝動が、実は自分の心に開いた穴がますます大きくなっていることから来ているのだということに気づかないまま、ひたすら外の世界に快楽を追い求めて日々を過ごすようになってしまった」
「我々は今、快楽と快楽の後に忍び寄る空しさとの繰り返しの中で、生きるとは何なのか、本当の幸せとは何なのか、生きる目的はあるのかといったことへの答えを求め始めている。実は、その空虚感、生きることの意味を問おうとするその衝動こそ、刹那的な快楽に陥ってしまおうとする我々の頼りない意志を、生命の進化の方向に向けさせようとする自然の力なのだ」
「多くの場合、この精神的進化に目覚めない人のほうが、動物的欲求の中で生き生きと生き、かつ動物的欲求の中で価値づけられた社会の中で、あたかも聖者の如く、君子の如く振る舞うことができる。実際には自己自身に目覚めていないにもかかわらず、動物的欲求にとりつかれ、本物の自分として生きようとしていないにもかかわらず、このような人たちが社会の第一線の上に立つことが極めて多い。そのために社会の価値観はますます動物的欲求を増長させる方向に働き、精神的進化に目覚めた者を病的として排斥してしまおうとするのである。この矛盾とも思える社会現象を、キルケゴールは『死に至る病』の中で次のように語っている。
世間と呼ばれているものは、もしこう言ってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけ出来上がっているのである。彼らは自分の才能を利用し、富を蓄積し、世間的な仕事を営み、賢明に打算し、その他いろいろなことを成し遂げて、おそらくは歴史に名を残りさえもする。しかし、彼らは彼ら自身ではない。彼らがその他の点でいかに利己的であろうとも、精神的な意味では何らの自己をも彼らは所有していない」
「我々は、生まれた時から、地盤のしっかりしていない大地の上に、ひたすら高層ビルを建ててきた。そこでは、大地は当たり前にあるとして、ただひたすら動物的欲求の求めるままに、動物的欲求で形作られた高層ビルを作ってきた。一生懸命勉強し、知識を身につけ、一流大学に入り、一流企業のエリート社員として出世していくのも、その人の高層ビルであるし、技術を磨き、年と共に誇り高き技術者として生きていくのも、またその人の高層ビルである。その高層ビルを人は見て、高く立派であればあるほど絶賛し、人はその絶賛される中に喜びを感じる。
しかし、そのビルが高くなればなるほど、動物的欲求の充足があればあるほど、ビルが不安定な地盤の上に建てられていることを感じるようになってくる。その不安定な地盤を感じることが『人生いかに生きるべきか』という問になって現れてきているのである」
臨死体験の研究をしている医師のジェフリー・ロングによれば、臨死体験者の約半数は物欲が薄れるといいます。金や名誉があっても死んだ後には持っていけず、それらでは幸せになれないと身にしみてわかるからだそうです。
人工蘇生術のエキスパートであるモーリス・ローリングズは、臨死体験をしたある患者の次の言葉を紹介しています。
「私はいつも、社会的地位と富裕象徴とを人生における最も重要なものだと考えていた。生命が突如として私から取り上げられるまではそうであった。
今、私は、これらはどれも重要ではないと知った。物質的なものなど何の価値もない。我々の現在の生は、あなたが後で見るものに比べたら無に等しい」
そして、「意味がない」という程度では済まず、死後は地獄という最悪の結果が待っています。こんな悲劇はありません。
・すべて無常の幸福
ちなみに、「私は金や名誉で幸せになろうと考えていない」という人は多いです。そういう人に、「では何で幸せになろうと考えているのか」と聞くと、恋愛や仕事、子供や家族の幸せ、あるいは愛だとか慈善行為といったものを挙げてきます。こういった精神的な幸せも含めて、人間が考えるような幸せはすべて世間的な幸福であり、無常・相対の幸福です。
〇人間は近視眼的
人間は近視眼的な生き物なので、無常の幸福を求める生き方が何かしら意味のあるものだと思っています。生きる意味がわからず深刻に悩むという人は少数派です。
人間は身近なことについては、「これをやる意味があるのか?」と意味を考え、何か目的をもって行動します。たとえば電車に乗った人に、どこへ行くのかと聞いて、「さあ、どこへ行くのかわかりません」と言ったら、この人は頭がおかしいと思うでしょう。
しかし、死や死後を含めた広い視点になると、どこへ行くかわかっていない人がほとんどなのです。
・進歩していると思っている
歌手のマドンナは、「もちろん進歩ってものを信じてるわ。だから人間は生きてるのよ。進歩は人間本来の性質なの」と言いました。彼女のように、このまま努力していれば、昨日より今日、今日より明日のほうが人生が進み、より優れた人間になっていると思っているかもしれません。しかし、これは近視眼的な視点です。
「だまし絵」の1つに、登り続けると出発点に戻ってしまう「無限階段」があります。

有名な絵なので誰でも1度は見たことがあるでしょう。近視眼的には昇って進歩しているように見えますが、広い視点で俯瞰すればまったく昇れていないことがわかります。
ちょうどこのだまし絵のように、人間は進歩しているように思い込んでいますが、実際はまったく進んでいないのです。進歩していないと感じる人は感じます。
「突き詰めてやればやるほど、なぜか空転して、前に進んでいるという実感が起きない。空転して、自分を壊す結果になってしまう、オレのバイク事故のように」(ビートたけし)
まさか自分が、アリとキリギリスのキリギリスになっているとは思いもしないでしょう。
「木を見て森を見ず」という言葉があります。ご存じの通り、小さなことに気を取られて全体を見渡せていない、という意味です。視野が狭い人を見て、「自分は広い視野で物事を見ている」と思っている人は多いですが、そういう人も死や死後という最も大きな視野では見渡せていません。つまり、こういう人は「木を見て森を見て山を見ず」というような状態になっているのです。
・ほとんどは妥協した生き方
太宰治は、「大人とは、裏切られた青年の姿である」と言いました。若い時は理想主義に燃え「何でもできる」と思っていても、やがて幸福が無常であることなどが体験的にわかってきます。すると、ほとんどの人は「人生こんなもんか」と大なり小なり妥協した生き方となり、そこに落ち着いてしまいます。中には次のように疑問を持つ人もいます。
「勉強するのは進学のため、進学するのは就職のため、仕事をするのは収入のため、収入を得るのは生きていくため。しかし、生きていくのはいったい何のためであろうか。そして、私たちはこの人生の果てにどこへ行こうとしているのだろうか」(18歳学生)
もっともな疑問ですが、一時的に悩んだとしても、世間的な幸福、つまり無常の幸福以外に何を求めたらいいか考えてもわかるものではありません。他にどうしようもないので、結局は無常の幸福を求めて人生が終わってしまいます。
・どんな人も似たり寄ったりになる
お笑いタレントのだいたひかるのネタに「『みんなと同じことはしたくない』という、みんなと同じセリフ」というのがありますが的を得ています。「人とは違う人生にするぞ」と一時的に奮起することはあっても、結局は似たような人生を歩んでいくことになります。これは、どれほど特異なことをしているように見える人であっても同じです。
「こんなことあと何年続けるんだろうって。朝起きて、家を出て、現場へ行って、仕事して、帰って、というのが365日のうち、300日ぐらいを占めているわけよ。これなんかある?」(マツコ・デラックス)
「誰しもすごい狭い世界に生きてるじゃないですか。芸能人だろうと主婦だろうと歌手だろうとサラリーマンだろうと。みんな自分でわかってないかもしれないけど狭い世界に生きてて、だんだん客観的に自分を見れなくなってって苦しくなってくみたいな。そういうのから自分もそうだったって気づいて、そこから出たいというか、ちゃんと自分を見ないとと思って」(宇多田ヒカル)
第1巻でも説明しましたが、ヒトという種であることが大前提としてあり、その上での個性です。遺伝子レベルでは99.99%同じです。同じ種だから同じような生き方をする運命にあり、別の種とは根本的な違いがあります。どれほど個性的だといってもアリはアリ、魚は魚、犬は犬です。どれほど個性的だといっても、人間は人間なのです。
「ヒトは姿形・体質・性格など極めて多様ですが、実はゲノムのおよそ99.9%はみな同じものを持っています。ヒトは99.9%は同じゲノム配列を持っている上で0.1%だけ差異があるから多様だということが認識できるのであって、ミジンコやコアラ、ウーパールーパーなどゲノム配列が大きく異なる生物を入れて考えてしまうと、ヒト間の差異など微々たるもので多様であるとはいえません」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)
「人間の文化は表面的には多様で、とても珍しい慣行や風習があるかのようにみえても、本質的には変わらない。他の文化と根本からして違うまったく異質な文化などというものは存在しない。人間の体はさまざまな個人差があっても、根本的な構造はみな同じで、目が3つあるなど、まったく違う体をもつ人などいないのと同じことだ」
「たとえば英語と中国語はまったく違うし、そのいずれもアラブ語とは似ても似つかない。しかし『表層』の違いにもかかわらず、すべての人間の自然言語は、ノーム・チョムスキーの言う文法の『深層構造』を共有している。この意味では、英語も中国語もアラブ語も本質的には同じなのである」(アラン・S.ミラー/北海道大学教授/「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」より)
ビートたけしは、1994年に原付バイクで事故を起こし重傷を負っています。一命を取り留めたものの、生死の境をさまよう事故であったため、平生元気がいい時には気づかないようなことに気づいています。
たとえば事故の前は、「人とは違う特異な才能を持っており、一般人とは違う生き方をしている」と自他共に認めていましたが、次のようにまったく同じことをしていたと気づいています。
「ようするに、おいらの生活は仕事して夜寿司屋行って飲んで帰ってきて寝るだけ。三百六十五日それの繰り返し。一般のサラリーマンの人と同じで、やってることが凄い単調だったんだよね」
「今まで、サラリーマンとかタクシーの運転手とか土方のオヤジとか何が幸せなんだろうって思ってた。オートマチックな生き方に何の意味があるかってね」
「働いて家帰って家庭の団らんあってテレビ見てわははと笑って寝ちゃうのを、三百六十五日ずっと続けてる奴をオレは全然認めてなかった。嫌だなそんなのと思ってた。でも、てめえもそれやってたんだよね。病気になって病院に入ってみると、それがよくわかった」
「そうすると、何の仕事につこうがあんまり関係ないんじゃないかって気になったね」
・嘘をつく人生
無常の幸福しか知らず、かといって生き甲斐もなく生きるのは苦しいので、「無常」「相対」「不完全」である幸福を無理やり、「常」「絶対」「完全」である幸福にしようとする心理も働きます。そのため、意識するとしないとにかかわらず、自分にも人にも嘘をついて生きることになります。
〇深刻に悩む人もいる
一部、人生の根本問題がわからず深刻に悩む人がいます。
「私の愛する人々にも、また私自身にも、今日でなければ明日の日には、病気と死が襲ってきて、悪臭と蛆のほかには何一つ残らないのだ。私の仕事は、たとえどんなものであろうとも、ことごとく忘れられてしまい、遅かれ早かれ私はなくなってしまうのだ。それなら、何のためにあくせくする必要があろう?
どうして人間はこれを見ずに生きていられるのか、これこそ驚くべきことである!生に酔いしれている間は生きてもいけるが、醒めてしまえば、それらがすべて欺瞞であることを、しかも愚かな欺瞞であることを、見ないわけにはいかない!さればこと、滑稽なものも気の利いたことも、何一つありはしない、ただもう残酷でバカバカしいだけである」(トルストイ/小説家)
・深刻に悩む人は異常なのか
臭い物に蓋をする生き方をしている人から見れば、「そんなに悩まなくてもいいのに」とか「なにも死ななくたって気楽に考えればいいのに」という具合に理解し難いでしょうが、そうした生き方が耐えられない人がいるのです。もっと言えば、気づいているかいないかの差だけで、気づけば誰でも死にたくなるほど苦悩します。
・深刻に悩み自殺する人もいる
そして、中には生きる意味を深刻に悩み自殺する人もいます。
生きる意味を真剣に探したものの見つからず、かといって臭い物に蓋をする生き方も耐えられなかったため、自殺に踏み切ったということです。こういった人間苦を理由に自殺する人は非常に少ないです。
旧制一高(現在の東京大学)に入った藤村操は、人生に深く悩んだ末、華厳の滝に身を投げました。生活が苦しくて自殺する人は多くいましたが、藤村は思想的な悩みで自殺したため、当時の知識人に大きな衝撃を与えました。この時、藤村は次のような遺書を傍らの木に彫り残しています。
「悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、五尺の小躯をもって此大をはからむとす、ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチィーを価するものぞ、萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」
(意味:広大な天地や時の流れと比べたら、何と自分はちっぽけな存在であろうか。五尺という小さな体(約150cm、当時の男子の平均身長)で人生という巨大なものを知ろうとした。当時有名だったホレーショの哲学もやってみたが何の価値もなかった。この世のあらゆる真実はたった一言で言い表せる。つまり不可解。私はこの事実に苦悩し、ついに自殺することを決意した)
彼の自殺によって、華厳の滝は自殺の名所として知られるようにもなりました。
「鼻」が夏目漱石に絶賛され文壇に躍り出た芥川龍之介。しかし、次のように彼は次第に苦しみを吐露していきます。
「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか」
「どうせ生きているからには、苦しいのは当たり前だと思え」(仙人)
「見給え、世界の名選手さえ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?」
「自殺しないものはしないのではない。自殺することができないのである」
「もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。しかし我々は生まれた時から、こういう馬鹿げた命令を負わされているのも同じことである」
「人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」(侏儒の言葉)
「しみじみ『生きるために生きている』我々人間の哀れさを感じた」(或旧友へ送る手記)
「僕は勿論死にたくない。しかし生きているのも苦痛である」(遺書)
ある日、芥川が救いのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について友人である詩人の萩原朔太郎に訴えたことがありました。萩原が「君には、後世に残るべき著作も高い名誉もある」と言うと、芥川は「著作?名声?そんなものが何になる!」と言ったといいます。この時の芥川について萩原は、「あの小心で、はにかみやで、いつもストイックに感情を隠す男が、そのとき顔色を変えて烈しくいった」と語っています。
そして、35歳の時、致死量の睡眠薬を飲んで自殺します。自殺の動機について芥川は、「或旧友へ送る手記」の中で次のように書いています。
「君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。自殺者は大抵レニエの描いたように何のために自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」
芥川は「ぼんやりした不安」と表現していますが、内実はもっと深刻なものだったはずです。
・真面目な人は苦しむ
真面目な人であれば必ず苦しみます。第1巻でも説明したように、科学は人生の根本的な問題に対して無力です(第1巻「心は科学の対象外だった」)。ですので、他に答えを求めようとしますが、宗教はおかしいものばかりです。真面目に考える人は行き詰って苦しむ運命にあります。
「科学的文化が進歩して、生きることをどんなに便宜よくしてくれたからとて、人生の無常は依然として無常である。人生が無常である以上、人間は、魂の成長したる人間は、やはり厭世観に悩まされる」
「昔から多数の厭世論者が排出したが、ことごとく人生に死あることを理由として世を呪っている。死はそれほど人間を戦慄させるものだ。それほど人生を暗くするものだ。昔から智識の優れた王侯や、学者や、詩人が厭世論を唱えたのも、無理のないことである」(福来友吉/東京帝国大学助教授)
逆に言えば、苦しんでいないということは少なくとも不真面目でありいい加減ということです。
「人生は『選ばれたる少数』を除けば、誰にも暗いのはわかっている。しかもまた、『選ばれたる少数』とはアホと悪人との異名なのだ」(芥川龍之介)
「魂の成長した人は、科学の教える生き方に不満足を感じていても、彼らはその不満足を取り去る方法を知らない。だから彼らは科学の教える生き方に不満足を感じながら、やはりそれに従って生きるよりほかに、仕方がないと思っている。そしてその結果、不真面目なるものは享楽主義によって一生をごまかしていこうとし、まじめなるものは厭世主義となる」(福来友吉)
バカじゃないと幸せに生きられないのが、この娑婆世界なのです。