少しでも死後が心配になった人は、当然、良い世界へ行きたいと思いますが、そのためにどうするでしょうか。

その方法として、大きく次の3通りに分けられるでしょう。

〇名利
・名利に対する疑問

〇道徳的な善
・道徳的な善に対する疑問

〇宗教
・真実を追究する

 

〇名利

名利とは、名聞利養の略で、名誉と利益のことです。

「地獄の沙汰も金次第」という言葉もありますが、死後も金や名誉といった名利で何とかなると、本気で思っている人もいます。意識的に思っている人もいれば、無意識的に思っている人もいます。

・名利に対する疑問

しかし、膨大な殺生罪などの罪悪が名利で帳消し(相殺される)になったり、死後に良い世界へ行くことができる理屈は何なのでしょうか。

一生懸命、名利を手に入れるために努力し、自信に溢れていた人が、キューブラ・ロスのように臨終になってひっくり返ってしまった事例もゴマンと見ることができます(詳しくは第2巻)。

〇道徳的な善

ボランティア活動をしたり、道徳的に善とされる行為を一生懸命行うことで、死後の安心を得ようと考える人もいます。

「癌のために苦しみの連続で、ついに亡くなったその友人の死のありさまは、傷ましくて、見るに耐えなかった」

俳優の丹波哲郎は、このような友人の悲惨な死をきっかけに死や死後を研究するようになったという人ですが、彼は次のように地獄に堕ちる可能性は誰にでもあると言います。

「一度くらいは、誰でも、『殺してやりたい』と思ったことがあるだろう。こうした『』が、あの世では罰として自分の身にふりかかってくるというのが『自業自得』の意味であり、となると、実は、人間には誰もが『地獄堕ち』の可能性が多分にある」

「仏教では『三業(身業・口業・意業)』を問題にするのだ。実際に盗みをはたらく(身業)だけでなく、口に出してそう言ったり(口業)、あるいは盗もうと心の中で思った(意業)だけでも罪となり、それを自分で刈り取らねばならないとされるのである。そんなことを言えば、現実に罪を犯していない人間などひとりもいなくなるだろう。たとえば、実際に殺人や盗みはしなくても、誰でも一度は『あいつを殺してやりたい』などと思ったことがあるはずだからだ。

従ってうまく罰を免れたと思っていた行為や、心の中で犯してきた様々な悪業が、すべてあの世において罰として戻ってくるというのが自業自得の本来の意味なのであり、地獄の存在理由ともなるわけだ。つまり、『私は地獄などというところとは縁がない』などとは何人といえども言えない。誰もが『地獄』に堕ちる可能性があるということであり、各地獄でのむごたらしい刑罰も、決して他人事ではないし、絵空事ではないということなのだ。そのように認識した時、初めて往生要集で描かれる地獄の恐ろしさも身に迫ってくるはずなのである」

そして、地獄に堕ちないために重要なこととして彼は次のように考えているようです。

「現世に生きるわれわれにとっても肝要なことは、やはり『素直に、素直に、素直に!』『真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに!』と繰り返し何度も徹底的に念じることだと思う。そしてあえて再び言う。地獄界は厳然として存在する。この事実は、どうしようもない」

・道徳的な善に対する疑問

道徳的な善についても、名利と同様の疑問が生まれます。

たとえば「素直になる」というのは主観的なもので、程度も人によって様々ですが、その「素直になる」という行為で膨大な罪悪が消える理屈は何なのでしょうか。

膨大な罪悪と比較して、善は圧倒的に少ないように思えますが、あまりに虫がいい理屈ではないでしょうか。

人間関係であれば悪いことをしても逃れることができたり、「反省しているのだから許してあげよう」という気にもなりましょうが、因果の法則は自然法則ですので、そういった人間の都合に関係なく狂いなく結果を生じさせるはずです。

〇宗教

あるいは宗教の中に解決法を見つけようとする人もいます。大まかに言えば、キリスト教圏であればキリスト教、仏教圏であれば仏教を信じることで死後の安心を得ようとします。

江戸中期の禅僧、白隠には次のようなエピソードがあります。

白隠は幼い頃、近所の寺で仏教を聞いていましたが、中でも地獄の話に身の毛がよだつ思いがしました。

(自分は虫や魚を殺した。自分はきっと地獄に堕ちるに違いない・・・・)

ある日、風呂を炊く火の音を聞いて、白隠は寺で聞いた「悪いことをした人間は必ず地獄に堕ちる」という話を思い出し大声で泣きました。

「お前は男の子じゃないか。どうしてそんなに憶病なのか」

母親が叱ると白隠は「私は地獄が怖いのです。お母さんと一緒にいても怖いのに、1人で地獄に堕ちたら誰が助けてくれるのでしょうか」と再び泣きました。

しばらくすれば忘れるだろうと母親は思いましたが、白隠は地獄について深刻に悩むようになりました。

やがて白隠は地獄の解決のために激しい修行に励むようになります。

「このからだが火にも焼けず、水にも溺れぬような力を得るまでは死んでも修行を止めぬ」

このような固い決意で修行を続けた白隠は、後年、「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山に原の白隠」とまでいわれるようになり、臨済宗中興の祖と称されるようになりました。

そんな白隠ですが、彼は「南無地獄大菩薩」という言葉を残しています。これは「地獄こそ真実の幸福に導く正しい先生である」という意味です。白隠のように、死後の地獄に対する恐怖が求道の強いモチベーションとなった人は数多くいます。

・真実を追究する

宗教はゴマンとあります。

そして、1つの宗教団体には複数の教義があります。

その教義を1つ1つ正しいかどうか精査するということになります。1つでも間違っていれば欠陥のある宗教です。100個の教えがあれば100個すべて正しくなければなりません。

たとえば、現代科学は心が対象外であるため、超心理体験をした人は、体験と合致する教えがあればそれだけで飛びつきやすく、その宗教のすべてを信じやすいですが、それは早計で、1つ1つ理性で教義を精査し、すべての教義が正しいか追究しなければなりません。

信じないより信じたほうが得だと考え、神も仏も何でも信じるという人も少なくありません。たとえば、もしその神なり仏なりが実在したら救われる、たとえ実在しなくても害はない、という理屈です(パスカルの賭けと呼ばれているようですが)。

しかし、この理屈には「信じる」という心の行為が害(罪悪)ではないという前提が必要で、これまで説明した通り、心の行為にも善悪があり、ある対象を信じることが罪悪である可能性があります。

また、先のガリレオ裁判の例のように、ある教義に間違いがあることが判明すれば、まだ明らかになっていない他の教義(たとえば神の存在など)の信憑性が疑われるでしょう。 逆に、ある教義が正しいことが判明すれば、まだ明らかになっていない他の教義の信憑性も増すでしょう。

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第6章 解決法
6.1 何をするか
6.2 悟り
6.3 望月進化論
6.4 結論