哲学者のショーペンハウエルは、「人生は免れることができない死と、死に対する恐怖との合宿所である」と言いましたが、死の恐怖といっても強弱があります。
完全な死の直前である臨終の恐怖が最も強い死の恐怖であり、本物の死の恐怖です。臨終以外でも死の恐怖を感じることができますが、臨終の恐怖とは比較になりません。しかし、その臨終以外の死の恐怖でさえ、「ハンマーで殴られたような衝撃」と形容するほどの大きな衝撃を受けます。
お笑い芸人の宮迫博之はガンを告げられた時、「目の前が真っ暗になった」といいます。
女優の仁科亜季子もガンの告知を受けた時、「頭をハンマーで打ち砕かれたようでした。自分の身に何が起きたのか理解できませんでした」と振り返っています。
詩人の高見順もガンになった時、「恐ろしいものが背後から迫って来る。夢中で逃げ惑うばかりだ」と死の恐怖を語っています。
岸本英夫も次のように語っています。
「まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫って来る前に、私はたっていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった」
「死が目の前に迫り、もはやまったく絶望という意識が心を占有したときに、にわかに、心は生命飢餓状態になる。そして生命に対する執着、死に対する恐怖が、筆舌を超えたすさまじさで心の中に起ってくる。このように生命飢餓状態というものは、生存の見通しに対する絶望がなければおこってこないというところに、大きな特徴がある」
「死の恐怖は、人間の生理心理的構造のあらゆる場所に、細胞の1つ1つにまで浸みわたる。生命の執着は、わらの一筋にさえすがって、それによって迫って来る死に抵抗しようとする」
「私は、しばしば、死刑囚のことを思った。死刑囚は死を宣告されて、しかも、独房にいなければならない。何時、刑を執行されるかわからない不安な状態で、死を見つめながら、2年も3年も置かれたら、いったい、どういう精神状態になるであろうか。予告された死の苦しみは、実際に刑が執行される時だけのものでは、断じてない。死の苦しみは、予告されたその刹那から始まる。それ以後は、3日生きればその3日間が苦しみである。10日生きればその10日間が、必死の激しいたたかいである。わずか2週間のたたかいですら、私は相当にまいった。私自身も死刑囚のような気持ちで、本物の死刑囚に深い同情を寄せざるを得なかったのである。そのように、私の内心は、絶え間ない血みどろのたたかいの連続であった」
「レ・ミゼラブル」などで知られるフランスの文豪、ヴィクトル・ユゴーは「死はいかに人を邪悪にすることか」と言い、文学者のラ・ロシュフコーは「死と太陽は直視することは不可能である」と死の恐ろしさを表現しています。
私自身の体験からいっても、死の恐怖を感じれば全身の毛が逆立ち、全身の細胞が「死にたくない」と叫びます。
・死が怖くて自殺する
死が怖くて自殺しようとする人がいます。死ぬことで死の恐怖から解放され楽になれると思ったということです。
たとえばロシアの文豪トルストイは、その1人です。
「この恐怖から逃れんがために、自殺を思ったのである。私は自分を待ちもうけているものに対して恐怖を覚えた。
そして、その恐怖が現在の状態よりも恐ろしいことを知っていたけれど、私は辛抱強く終わりを待っていられなかった。どうせ遅かれ早かれ心臓の脈管が破裂するか、それとも何かほかの器官が破れるかして、万事終わってしまうのだ。こういう理屈が、どんなにもっともらしく思われても、私は辛抱強く終わりを待っていられなかった。暗黒の恐怖はあまりにも大きすぎた。
で、私はピストルの弾丸で、少しも早く、一刻も早く、その恐怖から逃れようと思った。つまり、この感情が何よりも強く、私を自殺へとひいていったのである」(トルストイ)
・死の恐怖は地獄からくる
人間の死後は必ず地獄です。しかも、地獄の中でも最悪の地獄である無間地獄です。地獄は荒唐無稽な世界ではありません。実在する世界です。この世に地獄と形容できるような苦しみが実在するように、死んだ後にも実在するのです。第1巻では科学的な知見を交えて、このことを説明しました。そして、臨終から地獄の片鱗が見えてきます。
「命終わらんと欲る時、地獄の衆火、一時に倶に至る」(観無量寿経)
(訳:命が終わろうとする時、地獄の猛火が一斉に迫ってくる)
「終りに臨み、罪あひはじめてともに現じて、後に地獄に入りてもろもろの苦にかかる」(往生要集)
(訳:無数の悪業の結果は、臨終に一斉に現れ、地獄に堕ちて無限の苦悩を受ける)
死苦には、死後の地獄の苦しみの1部が含まれているのです。
死の恐怖は地獄からきます。死の恐怖の本質は死後の地獄にあるのであって、「肉体の苦痛」だとか「無になる恐怖」などといったものは地獄の恐怖に比べたら無きに等しいのです。
哲学者の古東哲明は、なぜ死は怖いのか、死の恐怖の原因として、次の2つを挙げています。
- 肉体の死滅自体への生理的恐怖(死去する際の身体的苦痛など)
- 自己の存在が消失してしまうことに対する哲学的恐怖(無限にうち続く自己の虚無を想っての恐怖)
このように考える人は多いでしょうが、これは死の恐怖の原因のほんの一部にすぎず、要である圧倒的な地獄に対する恐怖が抜けています。
・自然発火
第1巻では、地獄の火は自身の悪業による消せない火だと説明しましたが、心の問題ですので、何か現象面に現れてもおかしくないでしょう。
たとえば、臨終に、その人が寝ていた形に布団が焼けるといった自然発火現象なるものが報告されていますが、それらの真偽は別として、実際にあり得る現象なのではないでしょうか。自然発火現象の原因として物質的な理由があげられているようですが、そうではなく、根本原因は心(悪業)にあるのではないでしょうか。
・後悔と恐怖に襲われる
臨終は、激しい後悔と恐怖が代わる代わる襲ってくるのです。
「大命将に終わらんとして悔懼交至る」(大無量寿経)
(訳:命が終わろうとする時、後悔と地獄の恐怖が代わる代わるやってくる)
ちょっとやそっとの後悔ではなく筆舌に尽くし難い後悔であるため、血の涙を流して後悔するとも表現されます。
2.4死の苦しみ
〇死は最大の苦しみ
〇死はすべてを破壊する
〇死の恐怖
〇死にたくないという願い
〇死がある限り幸せになれない
〇「死は怖くない」