理屈は説明したので、死後が地獄である状況証拠もいくつか見てみます。
〇臨死体験
臨死体験からいくつか紹介します。
・昔の日本
日本霊異記は、日本の仏教説話集としては最も早く、正式名称は日本国現報善悪霊異記といい因果応報の事実を示しているとされています。
その中には、行基と智光の次の有名な話があります。
奈良時代の三論宗の学僧、智光は行基と競い合っており、行基が大僧正に任ぜられると嫉妬心を起こし行基を謗りました。
すると智光は、突然下痢を起こし1か月間病み続けました。智光は弟子に、「私が死んでもすぐに焼いてはいけない。9日間はそのままにして待ちなさい」と戒め、その後、死亡しました。
死ぬと智光は地獄に堕ち、火と熱による厳しい罰を自分の意思とは無関係に受けました。肉が溶け骨だけ残っても、地獄の鬼が「生きよ、生きよ」というと、体は元通りになり、これを何度も繰り返しました。
このような罰を9日間受け続けた後に智光は現世に生き返り、地獄での出来事を事細かに弟子に話しました。そして智光は恐れ、行基に会って許してくれるよう謝罪しました。行基は喜び、智光は嫉妬するのをやめ、両者ともいっそう教化に励んだという話です。
等活地獄と描写が似ています。
・現代の日本
現代の日本でも報告されています。
カール・ベッカー著「死の体験」より抜粋します。
群馬県に住む30代のBさんは、原因不明の病気にかかり3年近く闘病しますが、やがて危篤状態に陥ります。17時間にわたる危篤状態から意識を回復した後、Bさんは死後の世界を語りました。
あの世で気がつくと、Bさんは鬼のような者たちに尋問所に連れて行かれました。
そこでは10人ぐらいの男女がすでに残酷な尋問を受けており、彼らは腕や足を引きちぎられて悲鳴をあげていましたが、死ぬことはできず、いつまでも苦しんでいました。Bさん自身も逃げ出そうとしましたが、押さえつけられていて、目を逸らすこともできなかったといいます。
すると、すでに事故死していた高校時代の友人が、腕をもぎ取られた状態で上から落ちてきてBさんにぶつかり、Bさんは気を失いました。
そして、目が覚めたら意識を取り戻していたそうです。
・海外
海外の事例も紹介します。
人工蘇生術のエキスパートである医師のモーリス・ローリングズが、ある患者に蘇生術を施していた時の報告です。少し長いですが、重要なところですのでそのまま抜粋します。
「私はこれまで死は痛みの無い生命の消滅だと考えていた。死後経験などというものは、そのほとんどが空想か、せいぜい想像の類であろうと高をくくっていた。私の耳に入り、また、もので読んだケースのほとんどを、私は低酸素状態に陥った患者の彷徨する精神機能が経験する、空虚な多幸トリップではないかと思っていた。
ところが、ある患者に接していた時の体験が私の考えを大きく変えた。この患者は48歳の白人男性で、地方の郵便配達員であった。中肉中背、黒髪、誰に対しても感じのよい人柄であった。
患者に私たちがストレステストと呼んでいる検査法をやらせていた時のことである。患者が不幸なことに心拍停止を起こし、死んだようになってフロアに倒れた。私は彼の胸に耳をあてたが、心拍はまったく聞こえなかった。手を喉仏の下へ這わせてみたが脈拍はまったく感じられなかった。一度か二度、溜息のような呼吸をした後、まったく息が絶えた。心臓筋肉が時たまぴくぴくと動き、ついで痙攣がきた。そして顔色が次第に青みがかっていった。
私が患者の胸に手をあて、内側へ強く心臓マッサージをし、看護婦がマウス・トゥ・マウス(口移し)人工呼吸法を開始したが、不幸にも完全な心臓ブロックが起こり仮死状態になった。心臓ブロックを克服して心拍頻数を1分間35ぐらいから80ないし100までにあげるためには、ペースメーカー装置が必要だった。私は、ペースメーカーの導線の先端を、手動で静脈系へ押し込み、心臓内部に宙吊りにさせた。導線の他端は、バッテリを電源とする小型ペースメーカーにつないだ。
患者は意識が戻り始めた。だが、私が胸部圧縮を中断すると患者はすぐに失神し、眼球を上転させ、背を弓なりにそらせ、軽い痙攣がきて、呼吸がとまり、再び仮死に陥るのだった。
患者は心拍と呼吸を取り戻すたびに、『私は地獄にいる!』と悲鳴を上げ、『助けて!』と嘆願した。私は恐怖に駆られた。地獄という言葉が出てきて、私は本当に仰天した。
患者はそれから、まことに奇妙な訴えを発したのである。『止めないでくれ!』と嘆願したのだ。読者にわかって頂けるかどうか?私がこの患者以前に蘇生術を施してきた患者のほとんどは、意識が回復するや否や、最初に口にする言葉が、『その手を私の胸から外して!』という嘆願だったのである。私は大柄だし、私の外部的心臓マッサージ法は、時に肋骨を折るほどに強いことがあるからだ。だが、この患者は私に、胸部圧縮を『とめないで!』と叫んだのである。
その時、私は患者の顔に、正真正銘の恐怖を認めた。死において見られる恐怖表情よりも凄い恐怖のそれなのであった。この患者はグロテスクといえるほどに顔を歪め、まざまざと極限的な恐怖を見せた。瞳孔は拡大し、冷や汗を吹き出させ、震えている。まるで彼の頭髪が逆立った、といってよいほどであった。
それからもう1つ妙なことが起こった。彼はこう言ったのだ。
『わかって頂けないでしょう?私は地獄にいるんです。先生がやめるごとに地獄へ戻っちゃうんです!私を地獄へ戻らせないで下さい!』
こうした際の情動ストレス下の患者に慣れている私は、この時の彼の訴えを斥け、こわがらないでじっとしていなさい、と注意した。私は患者にこう言ったのを憶えている。
『忙しいんです。このペースメーカーを装置し終わるまで、地獄だとかなんだとか私の気を外らさないで下さい』
しかし患者は真剣なのだ。そして私はようやく、患者が本当にどうにもならない窮地に追い込まれていることに気がついた。彼は心から恐がり、私がかつてみたこともないパニックに陥っているのだった。極度の恐怖に震えおののいていることが、患者に接している私にはわかりすぎるほどわかった。私もまたひどく恐ろしくなった。私は、大急ぎで、狂ったように施術を続行した。それまでの間に、患者は3度ないし4度、心搏と呼吸の停止によって完全な意識喪失と臨床死に陥り、そのたびに恐ろしい死後生のエピソードを経験したのだった。
この異常な体験の後、引き続いて、いくつかの恐怖経験をじかに患者から聞くようになった私は、是非ともこの事実を書かなければ、と本書執筆の緊急使命とでもいうべきものを感じるようになった。今の私は死後生はある。ただその死後生が良いものではないと、ほとんど確信に近いものを感じている」
また、臨死体験をして以来、牧師になったというケネス・E・ヘイギンは、「私の証言」という小冊子にその時の体験を書き残しています。
「私の心臓は搏動を止め、私の肉体の中に住んでいる霊的な人は私の肉体から離れた。私は下へ下へ下へとゆき、ついに地上の燈火はすべておぼろげとなり、遠くなっていった。もっと下へ下へと行くにつれ、あたりは更に暗くなり、ついにまったくの闇となった。手を眼の前1インチまでに近づけても、見えなかったろう。
更に下へくだると、闇は息詰まるばかりになり、次第に熱くなっていった。とうとう、私から更に下の方に、地獄に堕とされた人々のいる洞窟の壁にまたたく小さな光がいくつか見えてきた。それらは地獄の業火が壁に反射しているからだった。その光源である巨大な炎の球が、頂が白く燃えているその火の玉が、私を引っ張り、磁石が鉄片を寄せつけるように、私を寄せつけていった。私は行きたくなかった。私は、歩くのではなく、ただ鉄片が磁石へ吸われるように、私の霊魂はその場所へ牽引された。私はそこから眼を外らすことができなかった。熱が私の顔面を襲った。
すでに何年も前の経験ではあるが、今でもこの眼で、その時の様子を私は見ることができる。昨夜起こった出来事であるかのように、私の記憶に、それは常に生々しい」
〇臨終
ボルテールは臨終に、「そこに恐ろしい鬼がいる。地獄が見えてきた、助けてくれ」と言いましたが、臨終に「地獄を見た」という人も少なくありません。
モーリスの著書にも、ある医師の報告として臨終の地獄体験の事例が紹介されているので引用します。
「この患者が、これだけの世間的な成功を成し遂げた立派な人であるのに、こんなに意気消沈しているなんて誰も想像できなかったろう。彼は私に、生がせいぜい与えてくれる以上のものを自分は探求しつつあるのだと語った。私は一体彼が何を言おうとしているのか理解できなかった。実はもっと腰を据えてよく傾聴すべきだったといま後悔している。
というのは、実にその晩、私はビバリーヒルズの彼の家へ来てくれと家人から呼び出されたのだ。急いで駆けつけてみると、彼は床に倒れていた。そして、助からなかったのだが、死ぬ少し前、しばらくではあるが意識を取り戻し、私の蘇生術に反応を示した。痛いかと聞くと、彼は首を振るだけだ。私は彼に、皆であなたを救命しようと頑張っているのだと言った。彼は頷いた。最期の言葉は、『私は怯えているんです。どうか私を地獄へ戻さないでください。私には今それが見える・・・・』というのであった。私は彼が何を見たのか、わからなかった」
死の直前に過去の行いが走馬灯のように脳裏をよぎることを紹介しましたが、ベルグソンなど、この行いが悪い行いであると主張する人もいます。
〇この世の地獄
この世にも六道を見ることができます。
地獄界と形容できるような不幸な境遇にいる人もいれば、天上界と形容できるような幸せな境遇にいる人もいます。
〇死の恐怖
詳しくは第3巻で説明しますが、実際の自分の死に直面すると人間は激しく恐怖します。(科学が近づく仏教の世界3「死はすべてを破壊する」)
「死の恐怖は、人間の生理心理的構造のあらゆる場所に、細胞の1つ1つにまで浸みわたる。生命の執着は、わらの一筋にさえすがって、それによって迫って来る死に抵抗しようとする」(岸本英夫/東京大学教授)
平生は、死の苦しみといえば肉体の苦しみを想像しがちですが、実際は心の死の苦しみのほうが圧倒的に大きいです。
「死は、ほとんどすべての場合に肉体的な苦痛を伴う。生物というものは、肉体的苦痛なしでは、その生命を終ることができないようにつくられているらしい。それは、進化論の適者生存の理論から考えても、やむをえないことである。(中略)それゆえ、死の苦しみについて人々がまず思うのは、死に至るまでの肉体的な苦しみである。(中略)そこで、死に至るまでの病の苦しみさえなければと、人々は考える。それさえなければ死も、それほど怖いものではない、とすら思う。
しかし、その考え方は、まだまだである。それには、まだ、問題の混同がある。死に至るまでの苦しみが、あまりに激しいので、それと、死そのものの苦しみとを混合しているのである。そして、死に至るまでの肉体的な苦痛を解消できれば、それで死の問題は、すっかり解決したかのように考える。しかし、問題はそれほど単純ではない。死の苦しみの中には、もっともっと深刻なワナが隠されている。肉体的な病気の苦しみは、かりにそれが苦しくても、それは、死に至るまでのことである。その途中の苦しみにすぎない。死そのものの苦しみではない。死に至るまでの肉体的な苦しみと、死そのもののもたらす精神的な苦しみは、別のものである。死の苦しみは、いわば、二重の構造を持っている。途中の苦しみとは別に、その奥に、もっと直接な、死自体の苦しみが潜んでいる。この2つは混同されてはならないのである。
死自体を実感することのもたらす精神的な苦しみが、いかに強烈なものであるか、これは知らない人が多い。いな、むしろ、平生は、それを知らないでいられるからこそ、人間は幸福に生きていられるのである。しかし、死に直面した時には、そうはいかない。人は、思い知らされる。その刺し通すような苦しみが、いかに強烈なものか、そのえぐり取るような苦しみを、心魂に徹して知るのである」
「この2つは、質的には、まったく異なった要素でありながら、両者は、時間的には、ほとんど同時に人間を襲ってくる。それで多くの場合、両者は混同されてしまう。ところかまわず襲ってくる激痛、高熱、吐瀉、下痢、呼吸困難、このような思ってもゾッとするような苦痛なしには、この人間の肉体は、生命を失ってゆくことのできない場合が多い。それだけに心を奪われて、それだから自分は死ぬのが怖いのだと思っている素朴な人々も多い。しかし、これは前山の高さに気をとられて、そのうしろにひかえている真の高山を見誤る考え方である。肉体の苦痛はいかに激しくとも、生命を断たれることに対する恐怖は、それよりももっと大きい」(岸本)
進化論から考えて、死の恐怖を直視し、中に入り込んでくるよう自然は望んでいるのでしょう。
「本当に人間は死ぬために生まれてきたのだ。それは人間の運命である。それが運命であるなら、人間は泰然自若として平気で死ぬようにできていてもよさそうなものであるのに、実はそうではない。人間は死を怖れる」
「真理は、人生存在の意義は死によって消滅することである。人間の智識が進むにつれて、否応なしにこの怖ろしき真理と直接対面せねばならぬ。こう考えてみると、生命の進化が無意味になってくる。人間が進化すれば、その智識が進むにきまっている。智識が進めば、死の意味を知らざりしものが、それを知るようになり、その結果、死の恐怖が高まり、生をあじわうことがますます深刻となってくる。生命の進化は人間を不幸に導くということになる」(福来友吉)
「自然は、老いや死への恐怖をある意味を持って人間に投げかけているにちがいない。その恐怖は、それから逃れるためのものではなく、その恐怖の中に入り込んでくることを望んでいるはずなのだ。というのは、その不安定な幸福の中で、必ず、我々は、心の奥深いところに何かある、もっと心を満たしてくれる何かがあることを感じとっているからだ。その感じがあるから、刹那的な快楽の後から、どうしようもない空虚感が襲ってくる。そして、その空虚感が、我々に、何かもっと本質的に心を満たすことのできるものを求めさせようとしているのである。でも、我々は、その空虚な心をどうにかして満たしたい、死に対する恐怖からどうにかして逃れたいと思いつつも、どうすることもできないものだと始めから諦め、再び刹那的な快楽の中に落ち入ってしまうのである」
「死の恐怖は、悠久なる生命の存在を知らしめようとしている。死を意識させることによって、その死の恐怖を生み出している暗黒の世界に明かりを灯させようとしているのである。そして、その暗黒の世界に明かりを灯そうとする営みこそ、動物的快楽から離れ、崇高なる心の在処を求めようとする動きでもある」
「我々を動物的欲求の渦の中から目覚めさせ、さらに進化を遂げさせようとする働きこそ、死への恐怖であり、内から聞こえてくる『人生いかに生きるべきか』という命題でもある」(望月清文)
しかし、なぜ、これほど死は恐ろしいのかということです。「恐怖」というのは危険を教える重要なシグナルですが、死の恐怖は仏教で説くように死後の危険、つまり地獄を教える重要なシグナルとなっているのではないでしょうか。