人間はどれほどの罪悪を造っているのでしょうか。

〇心と口と身体で罪悪を造る

これまで見た通り、身体や口で造る悪だけでなく、心の悪の実在性が示唆されています。

世間常識では「思っただけ」と軽く見なされるでしょうが、それだけでは済みません。たとえば、「死んでくれたらいい」と思っただけで、1つの独立した業として体に染みつき、未来必ず恐ろしい悪果をもたらすということです。1度思ったら取り消しはできません。

・間接行為

間接行為にも注目すべきです。自分が直接手を下さず、人を使って他を苦しめるといった場合です。

法律でも間接行為の1部は認められていますが(他人を道具のように使って犯罪を行う間接正犯など)、たとえば黒幕と実行犯、被害者との間でつながりができて、被害者を苦しめるほど実行犯だけでなく黒幕にも罪悪がカウントされるという可能性はあるのではないでしょうか。

 

・つながり

先に見たように、人との「つながり」はこれまで考えられていた以上に簡単にでき、つながったターゲットに影響を及ぼす可能性が示唆されています。一瞬の接触だけでなく、象徴する写真のような物だけでも、さらに物がなくともターゲットに関する情報を知るだけで「つながり」ができることが示唆される事例もありました。そして、一度つながれば、生理的な相関関係が継続して生じています。

臨死体験などでも、見えない網のようなもので他人と結びついているといった記述は多いです。

「深いレベルでは、私たちはみんなつながっているのです。誰かを傷つければ自分自身を傷つけることになりますし、他人の窮状に目をつぶれば大小さまざまな影響を被ることになります」(アーヴィン・ラズロ)

これからの科学は「つながり」が重要なキーワードの1つになっていくと思われます。

 

・膨大な「犯人」

たとえば、黒幕と実行犯の2者だけを罪悪を造った犯人とするのは法律上の粗い視点です。1つの結果が生じるまでに膨大な因縁和合が背景にあります。つまり膨大な「犯人」がおり、その全員に程度に応じた罪悪がカウントされる可能性があります。

たとえば、日本のような豊かな国の繁栄の陰には貧しい国の人たちの苦しみがありますが、彼らが苦しむほど日本人に罪悪がカウントされる可能性があります。

生物学者の丸山宗利(九州大学総合研究博物館助教授)は次のような話を紹介しています。

「そういう話を聞いても、どうもピンとこない。普通はそうだろう。しかし、このカメルーン滞在中、まさにそういう現場を何度か目撃した。私たちが能天気に虫を探していたある日、夕方近くなり、さて宿に戻ろうかという時、山道で小さな女の子が何かを運んでいるのが見えた。追いついてみると、風呂敷に包んだカカオの実を泣きながら運んでいるではないか。その風呂敷も粗末なもので、歩いている間にごろごろとカカオの実がこぼれ落ちた。カカオの実は石のように硬いし、1つ1キログラムぐらいもあり、それを小さな子が5個も6個も運んでいるのである。これには心が痛んだが、何もできなかったし、今考えても何もできなかったと思う」

この例の場合、女の子に指示する人(おそらく親)がおり、さらにその人にも指示する人がおり・・・・、という具合に、この女の子と最終的な消費者である私たちの間には明確な「つながり」があります。そして女の子が苦しむほど、私たち含め、「つながり」がある全員に程度に応じた罪悪がカウントされる可能性があります。

 

・何もしない罪

何もしていなくとも人を苦しめている場合があり、それは被害者の視点で見るとよくわかります。

漫画家の万乗大智は、小学生の時に受けたいじめ体験をこう語っています。

「毎朝学校に行くのがつらかった・・・・ 地獄のような日々だった。ある時、いじめっ子グループに囲まれて1人1人順番になぐられることがあったの。(中略)そのとき・・・・実は1番悲しくてつらいと感じたのが、いじめっ子グループに何もいわないでただ黙って見ていたクラスみんなの目だったの。なぜかそれが1番つらくて、心がもう壊れそうだったの・・・・ そういう気持ちはね、今でも決して忘れないよ・・・・決して」

実際は、「何もしない」という行為をしています。

法律でも何もしないことが罪になることがあります(不作為犯など)。

被害者が加害者を認識しているとは限りません。

今この瞬間も世界中には苦しんでいる人や動物がゴマンとおり、そういう事実を知っていたり知らなかったりするでしょうが、大抵はスルーしているはずです。

果たして罪悪はカウントされていないのでしょうか。

 

〇生き物を殺す罪

この世には様々な罪悪がありますが、ここでは代表的な罪悪である生き物を殺す罪を取り上げます。もちろん人間を殺すことも含みます。仏教でも殺生罪があります。

・自分で直接殺す

自分の手で直接生き物を殺すことを仏教では自殺といいます。一般的に使われる自殺の意味とは異なります。

歩くだけで知らず知らずのうちに虫を踏み殺し、蚊やハエが近くを飛んでいればうるさく思って叩き殺し、魚介類を見れば美味しそうに思って切り殺す、日々の行為を少し反省しただけでも、直接の殺生を膨大に犯していることがわかります。

動物だけでも膨大ですが、微生物なども含めれば天文学的な数になるでしょう。

ベジタリアンなど、肉を食べないことを誇っている人は多いですが、それは自惚れです。

 

・間接的に殺す

他人を使って生き物を殺すことを仏教では他殺といいます。

たとえば、漁師は膨大な数の魚を殺しますが、その動機には、突き詰めれば「魚を食べたい」という消費者の欲求があります。

消費者の欲求がなければ膨大に殺すことはなく、殺したとしてもせいぜい自分たちが食べる分ぐらいでしょう。

魚だけではありません。「鶏」「豚」「牛」等々も含めれば、さらに膨大な数になります。

そしてさらに、他殺は食べるためだけに行っているのではありません。人間に害を与える生物は駆除されますし、安全な薬を作るためには残酷な動物実験をしなければなりません。

「人間の行うあらゆる実験に用いられるのが、マウス達の仕事である。あるものは薬物を投入され、あるものは電気ショックを与えられ、あるものは体中に電極をつけられている。身動きが取りづらいケージに押し込められ、場合によっては動けないように拘束される。生きたまま解剖されることもある。当然だが、安全性を確認するためのテストは、安全かどうかわからない未知のものが試される。あるものは副作用で体のあちらこちらが膨れ上がり、あるものは毒性のために体中の毛が抜け落ち、もだえ苦しむ。危険性を確認するためのテストでは、致死量を明らかにしなければならない。死ななければ、さらに薬が与えられ、それでも死ななければ、新たな処理が行われる。そして苦しみながら死んでゆくようすが記録されていくのだ。彼らは実験動物である。死ぬことが彼らの仕事なのである」(稲垣栄洋/静岡大学農学部教授)

普通に生活するだけで、天文学的な数の他殺を行っています。

 

・何もしない

世界では多くの人が殺されていますがほとんどの場合、人間は何もしていません。

また、多くの動物が食用にされたり、駆除されたり、実験に使われたりして殺されていますが何もしていません。

夫が妻に頼まれてゴキブリを殺したとします。そして、その光景を子供が傍で見ていたとします。この場合、夫(自殺)や妻(他殺)だけでなく、子供にも罪悪がカウントされる可能性があります。

そして、動物を殺すのは人間だけではありません。

大型動物が小動物を食べ、小動物が昆虫を食べていますが人間は何もしていません。

直接と間接同様、天文学的な数の「何もしない罪」を人間は犯しています。