たとえば、量子論によって不可解な心の世界の多くを科学的に説明できるようになるかもしません。

そうであれば、「科学的見地からも、ついに心の時代がやってきた!(岸根)」ということになるでしょう。

「人間は、これまで洋の東西を問わず『宇宙の不思議』や『心の不思議』や『命の不思議』や『生死の不思議』など、総じて『人類究極の謎』を解き明かそうと様々な試みを行ってきた。ちなみに、『科学的な試み』や、『宗教的・哲学的な試み』や『芸術的な試み』などがそれである。しかし残念ながら、そのどの試みも『単独』では所期の目的を達成することができないことが判明した。ところが、幸いなことに、私は、量子論の登場によって、外なる物質世界へ向かった西洋も、内なる精神世界へ向かった東洋も、同じ山頂を目指すようになり、やがて人類にとっての真のパラダイムが切り開かれることになると考える」(岸根)

 

「人間の徳性とか経験とか、これまでは科学でなかったものが、いまは科学に組み入れられるところまできている。物理学はすでにその方向に進んでいるし、私のみるところ、心理学もそちらの方向に向かおうとしている。そうなれば、いよいよ『心の科学の時代』が始まることになる」(ブライアン・ジョセフソン)

 

認知神経科学者の金井良太(サセックス大学准教授)は、次のように「心も数学によって表現できる」と言います。

「数学の一分野である統合情報理論によれば、意識(心)も情報の量として数学的に定量化できるばかりか、情報の形(情報の質)としても数学的に計算できる」

つまり、「人類は、すでに心の問題までも、数学によって科学的に把握できる段階にまで進化してきている(岸根)」ということでしょう。

・宗教に科学のメスが入る

そして、必然的に宗教に科学のメスが入ることになります。

「量子論の結論は、これまで科学の対象外とされてきた宗教上の多くの概念を、正統科学の高みへと引き上げることができることを示している」(コンノケンイチ)

 

「量子論の登場によって、初めて科学と宗教の間の高い壁が取り払われ、可視の物質世界を対象とする科学と不可視の心の世界を対象とする宗教の統合が可能になる。その意味は、ついに科学と宗教の統合の時代がやってきたということである」

「今回の新しい東洋文明では、科学は宗教に潜む非科学性にメスを入れようとするし、宗教は科学に潜む非人間性にメスを入れようとして、物心一元論の文明へと必ず進化する」(岸根卓郎)

 

・科学と宗教を結ぶもの

アプローチの仕方に違いはあれど、宗教も科学も真実を求めるという同じ目的を持っているので、物理学者のマックス・プランクが言うように、「宗教と科学のあいだには、実際には相反するものなど何も存在しえない。なぜなら、一方が他方をお互いに相補うものだからである」ということになります。

科学と宗教の両者を結びつけるものが見つかる可能性があります。

「経験の精神的な領域と自然科学との乖離は、永遠の並行性をたどるのではなく、接近可能である。いつか、今私たちの眼前で展開されている科学革命がさらに進歩して、両者のあいだに橋が架けられる日が来るのかもしれない」(アーヴィン・ラズロ)

その喜びを、ショーペンハウエルは次のようにたとえています。

「2人の坑夫がいる。2人は、それぞれまったく離れた地点から、しかも互いに遭遇するような具合に大地の下に2本の坑道を掘り進んでゆく。2人とも大地の闇の中を、ひたすら羅針盤と水準器だけを頼りに作業を続けてゆくと、ついに相手方の槌音を耳にするという長いあいだ待ちこがれていた喜びを味わうことができる」

 

・宗教の正誤が決まる可能性

宗教に科学のメスが入ることで、宗教の正誤が決まる可能性が出てきます。そうすれば、たとえばガリレオ裁判のようなことが起こります。

周知の通り、ガリレオはコペルニクスの地動説を支持し、教会が支持する天動説を批判したため、1633年に宗教裁判にかけられ有罪判決を受けました。天動説を取る教会にとって、地動説を唱えるガリレオの存在は聖書を否定し神を否定することであったため、教会は徹底してガリレオを迫害したのです。

しかし、359年後の1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、公式に謝罪しました。359年間、頑なに地動説を認めなかった教会が、なぜ認めて謝罪したのかというと、根底には科学の発展があります。 

科学が発展し、地動説は世間の常識となりました。地動説を取れば「絶対の教え」を否定し神を否定することになります。しかし、このまま天動説を取り続ければ、「非科学的な教え」というレッテルを貼られ世間に笑われます。どちらを選んでもキリスト教にとって致命的ですが、彼らは最終的に地動説を取りました。そして、「絶対の教え」から「科学の成果に目を向け、必要なら神学の解釈を再検討する義務がある」という方針に変わりました。

このように、科学は「信じ方」に強い影響を与えます。間違った宗教の教義を変えさせ、謝罪に追い込む力を科学は秘めているのです。科学が明らかにしなければ、ずっと教会は天動説を説き続け、謝罪することはなかったでしょう。

同じように、これから宗教に科学のメスが入ることで、正誤の決着がつき、間違った教えが正しい教えに変わる可能性があります。

同じことは各宗教内にもいえます。

たとえば仏教にしても、様々な「仏教」を名乗る団体が乱立していますが、これらも科学が発展するにつれ教義の修正を迫られるでしょう。

この作業を繰り返し、最終的には(相当先でしょうが)宗教と科学は1つになり、同じ内容になるはずです。

その一方で、どれだけ科学が証明しても信じない人は信じません。たとえば、今でも地球平面説を信じている人はいます(しかもアメリカの若者の間で広まっているようです)。

 

・科学は不完全

念のため言いますと、科学は欠点がある不完全なツールでもあります。「科学的」という言葉が「真実」を意味するかのように使われていますが、それは正しくありません。

「科学者たちが公的な立場を確立するようになると、彼ら自身も圧制的になり、自分たちの真実が絶対的なものであると主張し始めたのだ。その結果、『科学的』という言葉は現在、『真実』と同意語のようになってしまった」(ブルース・リプトン)

 

科学の真理は「実験・観察・計算・推理が正しいとするならば」という仮定の上に成立しています。仮定が崩れれば真理もくつがえる科学を絶対と信じるのは迷信です。

「理性の科学では、科学者が自然現象を分析し、それを抽象化して数学モデル(仮説)をつくるさい、観測不可能な事象(命や心の問題など、総じて見えない現象)は数学的に表現することが困難であるから、それらをすべて無視ないしは捨象して数学モデルをつくることになり、対象が複雑であればあるほど、それを抽象化した数学モデルは、ますます現実から乖離することになるからである。

その証拠に、抽象化された数学モデル(仮説)に依拠する『理性の科学』では、そのモデル(仮説)に矛盾(誤り)が発見されれば直ちに崩壊することになる。それを比喩すれば、抽象化された数学モデル(仮説)に依拠する理性の科学は、家そのものが崩壊寸前の崖(仮説)の上に建っているのに、その家の設計図(理論)は正確で間違いないから家は安全(正解)であるというのと同じである」(岸根卓郎)

 

「物理学者は、物理学の分析方法や論理によっては自然現象の全体を説明できないことがわかっているので、全体の中からある部分の現象をとりだし、その部分だけに相当するモデルを作ろうとする。したがって、モデルは残りの部分を無視しているので、現象全体を説明しているとは言えないのである。ただし、無視されるのは、影響が小さく、理論をそれほど左右しない部分であるか、あるいは理論が作られた時には知られていなかったために、無視されたものである」

「要するに、科学的理論やモデルはすべてものごとの真の姿の近似なのだ。その近似に含まれる誤差はほとんどの場合、ごくわずかにすぎない。だからそのようなアプローチにも意味があるのだ」(フリッチョフ・カプラ/物理学者)

 

「私たちが目にしているのはありのままの自然ではなく、私たちの探求方法に対してあらわになっている自然にすぎない」(ハイゼンベルク)

 

「物理学が真理であると判定する基準は、ほとんどの物理学者(すなわち主観の集合)が、同じ結論を得るかどうかということでしかない」(橋元淳一郎/科学評論家)

 

「『科学』は実際には共通した立証基準を信奉する科学者たちの共同体なのだ。そのため、科学には保守的な傾向がある。つまり、往々にして、あまりに熱心に新しいことに抵抗し、あまりに頑固にすでに受け入れられた結論にしがみつくのである。哲学者トマス・クーンによれば、科学の新しい理論は古い理論の支持者が死に絶えるまでそれに取って代わることはない!」(スティーヴン・ラバージ/神経生理学者)

 

「自然科学に関する事実並びに法則は、その時代の人間の関与によって生み出されたものです。だから当然ですが、その時代の研究者による探索上の制約を受けます。よって、そこで生まれた自然科学の真理は、絶対的真理でも何でもなく、時代とともに変わるものであり、『その時点で判明した真理』にすぎません」(矢作直樹)

 

「厳密に言うと科学が提供するのは裏づけだけだ。数学の定理が真実であると証明されるのと同じ意味で、真実であると証明された科学の仮説は存在しない」

「厳密には、その仮説を裏づける有利な証拠が十分にあり、今のところ仮説と矛盾するような確固たる証拠はつきつけられていないと言っているにすぎない」(ロバート・ライト/科学ジャーナリスト)

 

アインシュタインは「自然は壮大な秘密をたまにひとつ明かすだけです」と表現し、「ああ、われわれの経験に比べ理論とは何と貧弱なことよ」と嘆いてもいます。

 

・真実を追究する力

レイモンド・ムーディーは「懐疑家とは、今日のように反対や否定ばかり口にする人のことではなく、むしろ、すぐ結論に飛びつかず、ニュートラルに真実を探求し続ける求道者のことだ」と言っていますが、人間には真実を追究する力が要求されます。アインシュタインは「理論物理学者の資格は?」と聞かれ、「ありのままのものを、あるがままに受け止める柔軟な考え方と、豊かな想像力」と答えています。