観念とは、心に思い浮かべた像をいいます。
たとえば、心で「りんご」を思えば、心の中にりんごの像が浮かんでくるという具合です。
福来は、次の3つの理由から「観念は生物である」ということを一貫して主張しており、これが福来研究のエッセンスとなります。
「『観念は生物なり』の思想は今も不変であるし、あれが私の終生の原理である。あれだけは今日でも非の打ちどころがない」(福来)
・観念は要求
まず、観念は自ら現れようとする要求をもったものであると言います。ここでは、その根拠となる事例を2つ挙げます。
1つは、千余名の人が集まった長野県伊那郡教育会の主催による、超能力者・三田光一の公開念写実験です。
三田は天性の能力者で、地元である宮城県気仙沼では、子供の頃から「魔法使い」と噂されていました。透視能力者としては千鶴子よりずっと以前から世間に知られており、長尾郁子の実験を伝え聞いてから念写をやり出しました。三田の能力は非常に高く、福来は「日本最高の超能力者」とまで称賛しています。
実験の題目は、集まった人の希望により島津五六と中村七五郎の肖像の2枚と決まりました。
念写を行い現像してみると、1枚には中村七五郎の像が出現し、もう1枚には島津五六ではなく、代わりに上杉謙信の像が出現していました(下図)。

まったく意図しない上杉謙信の像が出現したことについて福来は、この実験の6日ほど前に三田が武田信玄の念写をしたからであると言います。私たちは上杉謙信と武田信玄の2人が対立関係にあることを知っており、武田信玄といえば上杉謙信という具合に、2人を1セットで覚えています。武田信玄が念写されたため、対立関係にある上杉謙信の観念が出現の要求をもち、今回それが念写されたというのです。
もう1つの事例は、長野県飯田町の有志が三田を招いて行った念写実験です。
実験の題目は、長野県の烈婦(節操や信念を貫き通す気性が激しい女のこと)として尊敬を受けている山口不二子の像を乾板の5枚目に念写し、彼女の辞世の歌を3枚目に念写することになりました。
結果は、5枚目に山口不二子の像、3枚目に辞世の歌がそれぞれ出現しましたが、その他に松尾多勢子の像が6枚目に出現していました。
松尾多勢子は、山口不二子と並び称せられる長野県の烈婦です。つまり、山口不二子の観念と対立関係にある松尾多勢子の観念が、自ら活動して出現させたというのです。
・観念は力
次に、観念は力であると言います。
光をあてないと感光現象は生じませんが、念写は光をあてることなく感光させているため、観念が光と同じように力(エネルギー)があるということです。
・観念は空性
そして、観念は空性、つまり空間を超越する性質があると言います。
たとえば、重ねられた多数の乾板の中で、特定の1枚にX線やラジウム線、光線といった物理的放射線をあてようとすると、前後の乾板にも影響を与えます。つまり、前から放射線がくれば前の乾板にもあたり、後ろからくれば後ろの乾板にもあたるという具合に、中央の乾板だけにあてるということは物理的放射線ではできないことです。
それに対して念写は、前後の乾板に関係なく、選択した1枚にだけ作用させることができます。
また、観念が空性であることは、三田光一の月の裏側の念写実験を見てもわかります。
この実験は、三田が神戸・須磨にある自宅から、約40キロ離れた大阪・箕面にある福来の自宅に設置された乾板に、月の裏側の姿を念写するというものです。
昭和6年6月24日の午前8時20分、福来は乾板を2枚収めた箱を自宅に置き、8時30分に三田が乾板に向かって念を送りました。念写が完了し福来が乾板を現像してみると、丸い形をした月の裏面と思われる像が現れていました(下図)。

しかし、誰も月の裏側を見たことがないので、これが本当に月の裏面像なのかどうか、当時は誰もわかりませんでした。
ところが、福来の死後、アメリカのアポロ宇宙船から撮影した探査写真をもとにNASA編集の月面地図と月球儀が作成されます。この月面地図と月球儀をもとに東京大学の後藤以紀教授が解析した結果、三田による月の裏側の念写像は、月の真後ろより少し斜め上向きの写真図形とほとんど一致するとの結論を発表しました。
また、その後の研究ではさらに精密になり、たとえば、より正確に明らかになった月の裏側の地形と比較して、約80%において完全に一致、残りの20%がノイズ(無関係データ)という結果も発表されています。(佐々木康二著「『月裏念写』の新しい数理解析」より)
誰も見たことがない月の裏側を見て、さらに40キロ離れた乾板に念写したという結果は、三田の観念が実際に空間的規定を超越して働いたことを意味します。
「透視の場合でも念写の場合でも、吾人の念力は前にある金の壁でも、石の壁でも、これを無いと思って全然空じ終われば、それを超越して透視したり念写したりするのである。これに反して、もし有ると思えばそれが透視の働きを束縛して一枚の薄紙の向こうもわからぬようになる」(福来)
「生物」の定義は今でもはっきりしていませんが、福来は以上の3点から観念が生物であると表現しました。普通の有機体の生物と混同されやすいですが、その活動から生きていると言ったのです。