従来の心理学は、記憶について次のように説明しています。

1.過去は消滅し、ただその経験の一部分だけが記憶として残る

2.記憶は脳髄皮質中に保持されてある

3.記憶は不完全なものである

これが心理学の常識であり、世間の常識となっていますが、福来が提唱する記憶説は次のように真っ向から反対しています。

1.過去経験(記憶)は不滅である

2.過去の経験は、脳髄皮質中に保持されているものではなく、霊魂そのものの中に完全に存在している

3.脳は、過去経験を貯蔵する器でなく、過去経験を再現させる喚想機関にすぎない

4.記憶と喚想とはまったく別物である。喚想は脳の活動によって完全・不完全の別があるが、記憶そのものは喚想の完全・    不完全によらず常に完全である

5.よって、脳は消滅しても、過去経験は依然として存在しているこのように、福来の記憶説は一般の学説とはまったく異なっていますが、これは福来の長年の研究から導きだしたものです。

催眠実験中に、赤ん坊の時など被験者が普通の場合では到底思い出されない過去経験が、ある心理状態中に完全に思い出される事実がたくさんありました。こういった事実から、喚想の可能・不可能にかかわらず、記憶そのものは完全であることを福来は信じていました。

それに加え、「心霊現象の研究によって次から次へと発見される多数の事実は、段々吾人の記憶説を証明すべく進み行きつつある」と心霊研究によってより確信し、いくつか事例を挙げています。

・武内天真の念写

福来は「念写の実験をしている時、霊媒の念写しようと思わぬ種々の物象が乾板に現れることがある」と言います。

そして、研究していく中で、それは霊媒の古い過去経験の現れであることがわかりました。しかも、霊媒自身はまったく忘れているのに、乾板の上には、それが精密に現れていたのです。

「その最も著しき事例」として、武内天真の念写を挙げています。武内は、自ら霊能者であると称して福来のもとを訪ねた人です。

福来は、武内が愛読していた大町桂月著「人の運」の扉にある「人の運」の3字を、3枚重ねの乾板の中央にある一枚に念写することを注文しました。

3字を3分間ほど凝視し、次に乾板に念じ、そして乾板を現像してみると、「人の運」の3字が鮮明に現出しました。

ここまでは福来が期待した結果でしたが、よく見てみると一面に小さい文字がたくさん出ていました(下図)。

驚きながらよく吟味してみると、それは本の扉の次のページに印刷しある桂月自筆の序文が写っていたのでした。しかも、文句も書体も実物とわずかな違いもありませんでした。 

しかし、福来は「人の運」の3字だけ念写することを頼み、序文の念写は注文していませんでした。

福来が「君は大町桂月の書物の序文を読んだことがありますか」と尋ねると、武内は「一年ばかり前に2,3度読んだことを記憶しているが、しかしどんな文句が書いてあったか、いま思い出すことができません」と答えました。それにもかかわらず現れたことから、福来は次の結論を導きます。

「この念写は、その時における武内氏の観念の創造ではなく、一年前の過去の念そのものが直接乾板上に現れたものと見ねばならぬ。すなわち一年前に経験された念の過去相がそのまま完全に存続したものと言わねばならぬ」

「つまり、喚想の可能・不可能にかかわらず、記憶が完全に存在している、という吾人の理論は、この実験によって証明されたわけである」

・霊魂不滅

エネルギー保存則などを考慮し、福来の記憶説から導かれる結論は死後の魂の存在です。

「霊魂常住論、並びに過去不滅論から生ずる必然の結論は霊魂不滅の思想である。霊魂は肉体の死後、その個性を具えたままで永遠に常住するものである」(福来)

この新しい記憶説を提唱しているのでは福来だけではありません。たとえば哲学者のベルグソンは著書「物質と記憶」の中で次のように述べています。

A.脳は記憶の貯蔵器にあらずして、記憶を呼び出す機関にすぎない。

B.喚想は不完全でも、記憶そのものは完全である。

これは、福来の記憶説の3.4と一致します。

そして、ベルグソンは「肉体の滅びた後に魂が生き残ることを私たちは自然だと思うようになる」と言います。

「心は脳以外にある」と主張する人は他にもいます。

脳の機能地図を作り上げたことで知られる脳外科の世界的権威、ワイルダー・ペンフィールドは「精神とは脳の活動が生み出すものでしかない」という唯物論の命題を証明しようとしましたが、意に反して次のような結論に至っています。

「私は研究者としての生涯を通じて、他の科学者と同じように、心は脳の働きで説明できることを、何とかして証明しようと試みてきた」

「長年にわたって努めた後で、人間は2つの基本的な要素から成るという説明を受け入れるほうが、素直ではるかに理解しやすいと考えるに至った」

「脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える」

「心は、それ自体、基本的な要素と呼ぶべきものである。霊とか魂とか呼び方はいろいろあろうが、要するに実体のある存在なのだ」 

スエデンボルグ、ベルグソン、福来、ペンフィールドと、各分野の碩学が別々のアプローチから同じ結論に達しているという点は注目に値します。

 

・肉体は能力を制限する

福来は「心霊学の根本原理」として「外界事物は感覚器官や神経系統の働きによらずして知覚され得る」と言います。

これはつまり、「人は眼によらずして見ることができる、耳によらずして聞くことができる、鼻によらずして嗅ぐことができる、舌によらずして味わうことができる、手を伸ばさずして物に触れることができる」(福来)ということを意味します。

もちろん、この結論もこれまでの実験を踏まえて導いたものです。

そして、いつも見ているこの世界は、肉眼で見ているのではなく、「天眼」で見ており、肉眼は見る器官ではなく天眼の視野を制限する器官だといいます。天眼とは仏教用語で、あらゆるものを見通すことができる眼とされています。

「眼によらず見る働きが天眼、耳によらずして聞く働きが天耳で、各種の仏教経典に記載されてある」(福来)

つまり、天眼がその能力をすべて発揮すれば、宇宙はもっと広大に見えるところ、肉眼で制限されて狭くなっているのだと言うのです。

この肉体による制限は、眼に限らずすべてにいえると福来は言います。

天耳で世界の音を悉く聞くことができるのに肉体で制限されて一部の音しか聞くことができず、また、他心通によって人間の心を悉く知ることができるのに肉体の制限の結果、言語、文章、行動などの媒介を頼らないと人間の心を知り得ず、また、いかなる場所にもいかなる時にも幻化自在であるのに制限されて物理的法則に従わなくてはならない、という具合です。

では、どのようなものを選び取っているかというと、福来は「身体の生存に有利なものを取り、有害なものはこれを避けるよう運動する」と言います。

そして、「結論において吾人とまったく同一の見解を抱くもの」として、これもまたベルグソンを挙げています。

「その役目は物象全体の中から、私の捉えることができないすべてのものを除き、そして私の捉えたものの中から、私の身体と称する物象の要求に関係をもたないすべてのものを除き去ることである」

「脳は注意を生に固着させ、意識の領域を有効に縮めることだ。過去を思い出せないのは、脳の機能が過去を隠し、今の行動に役立つものだけをいつも見せるようにすることだからである」(ベルグソン)

ちなみに、同年代にチャーリー・ブロード(ケンブリッジ大学教授)という哲学者も次のように言っています。

「人間はどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生じることはすべてを知覚することができる。脳および神経系の機能は、ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが圧し潰され混乱を生まないように守ることであり、放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を締め出し、わずかな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである」