福来は念写を発表しますが、多くの批判を浴びることになります。
「私が一たび念写の研究を発表して以来、日本の学者、特に物理学者は驚愕し、念写など言うことは物理的法則に背くからという理由によって、これを詐術であると憶断したのであった。然るに、吾等はあくまでも念写の事実を主張して譲らぬので、大変な騒ぎを引き起こしたのであった」(福来)
そこで、物理学界の大御所、東京帝国大学元総長の山川健次郎が真偽を確かめるべく動き、長尾家に向かって実験を申し込みました。
長尾家は喜んで承諾しましたが、福来は「その結果は本当にバカげたものに終わった」と言います。千里眼実験が千里眼事件になってしまったのです。
・乾板がなくなる
実験当日の1月8日、一同が長尾家に集まります。
この日の顔ぶれは、郁子と夫の与吉、福来、福来の助手の源文学士、山川博士、藤教篤理学士、藤原咲平理学士、丸亀中学校の信原校長、菊池教頭といった人たちでした。
藤は、東京帝国大学の理科大学物理学科の講師で、同大学助教授である中村清二理学博士の指示で郁子を研究しに来ており、この日は山川の助手という立場でした。
藤原は、藤と同じ大学の大学院生で、後年、著名な気象学者となり、第5代中央気象台長(気象庁の前身)を務め、お天気博士として知られるようになる人物です。
中村も藤も千里眼に否定的で、そのため2人の後輩にあたる藤原も煽られていました。
念写の題は、山川健次郎の「健」の字と定められました。
郁子は例の如く念力を凝らしますが、1分5秒ほどした時のことです。郁子は激した顔で、「いくら光を出して健の字を押しつけようとしても乾板がありません。だから、山川さんは何か仕掛けをしていなさるであろうと思います」と言い出しました。
山川は「確かに乾板を入れた」と断言しますが、郁子は涙を流しながら「あまりに酷いなされ方」と言い、あくまでも乾板がないことを主張しました。
福来もあまりのことに呆れ果てていると、「藤原君プレートがない!」という山川の叫び声が聞こえてきました。
山川が箱を開くと、郁子の言った通り乾板がなかったのです。
一同が茫然として言葉も出せずにいると、藤が慌てた様子で席を立ち、一同に挨拶もせずに立ち去って行きました。与吉が「藤君は何のために立ち去りましたか」と聞くと、山川は「彼が箱の中に乾板を入れたので、自らあやふやに思って、探しに行ったのでしょう」と答えました。
福来は「誰が研究を妨害しようとしているのか」と怒り、一同が騒いでいると、しばらくして藤が玄関先に戻ってきました。藤は藤原を呼び、「乾板はあった。自分が入れたと思ったが間違いであったから、このことを先生につげてくれ」と言ったきり、そのまま立ち去っていきました。
このことを藤原が山川に伝えると、山川は驚いた声で「やれやれ」と言って立ち上がり、郁子の前に両手をついて白髪頭を下げて、「藤のような粗忽者を使って、奥様に対してすみません。健次郎はこの通り両手をついて御詫び申します」と言って謝罪しました。郁子は「あなた様のような方にそんなにして頂いてはすみません。間違いとわかれば、私も安心です」と言いました。
そして、山川は匆々として宿にしていた玉川楼に帰って行きました。
乾板を入れ忘れるという点に関して、実験に立ち会った人の間では外部に公表しない約束でしたが、藤がその日のうちに新聞記者たちにこの事実をもらしてしまい、しかも山川の意図によって故意に乾板を入れなかったのだと伝えました。
その後、事実ではないことを知った記者たちが、いったん新聞社に電送した原稿をあわてて取り消したという騒動がありました。
記者からこの顛末を聞かされた山川は、「新聞記者が本日の試験に関し、予がことさらに空箱を入れ、臨場したるよう長文の電報を東京・大阪に発し、その後、取り消しをなしたるを聞く。藤氏を呼び談ずる所あり」と藤を呼んで叱責しました。
藤の挙動を疑っていた与吉は真相を知るために、事件のあった当日、藤も泊まっていた玉川楼を訪ねています。
この時、藤は不在だったため、与吉は山川に聞きますが、山川は「藤がいないのでわからない」と言います。
藤は、翌9日も不在でした。
この一件から、福来は山川らを疑うようになりました。
「長尾氏夫妻は山川博士のような人格者の実験を受けることによって、世間から疑問視されている念写が真正なるものとして折紙をつけらるることと思っていたのに、その結果は前述の通り不始末至極であったので、不安と憤怒とに満ち、念写研究に対する山川博士一行の誠意を全然疑うようになった」(福来)
同様に与吉も、これ以上の実験は無理と判断し、玉川楼を訪問し実験謝絶の旨を申し入れます。
山川は玉川楼で記者会見を開き、実験経過と乾板を入れ忘れた出来事など、すべて公表しました。
会見を終えた山川は、即日丸亀市を立ち去ります。
この会見には藤と藤原、それに三浦恒介という京大生も顔を出していました。三浦は京都帝大の文科大学(後の文学部)の全学的な支援態勢のもと、文科大学心理学科の松本亦太郎教授の指示で千里眼研究に乗り出した人物です。松本は福来の先輩にあたり、透視の研究で注目を集めている福来に競争心を燃やしていました。
三浦は念写の事実を破壊しようと常に黒幕として動いており、たとえば次のような「前科」があります。
松本が三浦に郁子を研究するよう指示した時のことです。
長尾家では福来の研究を先に行っていたため三浦の研究を断りますが、面目が立たない三浦は泣いて頼んで何とか実験させてもらいました。
それにもかかわらず、三浦は郁子の頭脳から新放射線を発しているとして、大学の承認を得ずに勝手に「京大光線」と称して新聞記者に発表するという暴挙に出ました。
その後、長尾家との間に悶着があり、与吉の不興を買って出入り禁止となり実験ができない状態になっていたのです。
・藤の訪問
10日午前、福来が長尾家を訪問して談話していると、女中が「藤さんと藤原さんが暇乞いにおいでになりました」と伝えてきました。
与吉は、「藤はあれほどの騒ぎを引き起こしながら、8日の日にあわてて逃げ帰ったまま、その後一度も俺に面会してことの真相を打ち明けない。今、突然暇乞いして去らないとはあくまでも不届きな奴じゃ」と激昂しました。
そこで藤原を呼び、「聞きたいことがあれば、藤さんにちょっと来るように伝えてください」と言いつけました。
藤原はこのことを藤に伝えるために玄関に行きますが、しばらくして藤原が1人で戻ってきて、「汽車に乗り遅れるから、これにて失礼します」という藤の返事を伝えました。
これに対して与吉は怒り、「無礼な奴」と言って立ち上がって玄関まで行き藤と対面します。
藤は「乾板のことは自分の粗忽であった」と、そのことだけ一言謝罪し立ち去って行きました。
・嘘八百のマスコミ
山川が乗り込むことで世間の関心はより一層高まりましたが、このような粗末な経緯があったにもかかわらず、当時のマスコミは嘘八百の記事を並べたてました。
特に大阪時事新報は酷く、「千里眼の正体ついに現る」という見出しで次のような事実無根の記事を報じました。
「千里眼夫人の夫、長尾与吉氏は久しく郁子の透視なるものについて注意したるが、博士の実験ついにその功を奏し、郁子の千里眼なるもののまったく価値なきのみならず、これがため人心を惑はしむるの大なるを愧ぢ、9日午前、博士をその旅館玉川楼に訪問し、将来郁子をして一切千里眼の透視透覚を行はしめざるを誓い、郁子もまたこれに同意せる旨を告げて帰宅したり」
山川はこの記事を見て驚き、早速、取り消し請求の書面を時事新報社に送りましたが、社ではついに取り消し文を出しませんでした。
しかし、心中では悪かったと思ったと見えて、11日に社から2人の役員が長尾家に詫びに来ます。
この虚偽の記事は、三浦恒助が特派記者の森川という人物に知恵をつけて書かせたものでした。
また、丸亀で知り合った藤と三浦は意気投合し頻繁に情報交換をするようになり、千里眼批判への作為的な情報を新聞記者たちに流しました。
福来は言います。
「しかし、このような実際の内情は一般世人にはわからない。世人は新聞記事に欺かれて、長尾夫人が山川博士に千里眼の詐術を見破られて、再びこれを行わぬことを誓ったものと信じていた」
このため福来は後日改めて実験しますが、今度は実験中に泥棒が入るという事件が起こります。
試験物を盗み、「カクレテイタスト イノチハモラッタゾ」という内容の脅迫文を残す悪質なものでした。
福来は、「山川博士の実験以来、奇怪なる事件続発して、長尾夫人も不安を感じたるがため、一先ず実験を休みたき旨を告げた」と、後日の実験を約束し中止しました。
・藤の釈明会見
一方で、無責任に乾板を失念した藤を指弾する声も高まっていました。
たとえば、万朝報は藤について、「かかる人はふたたび学者として責任ある任務に従事するに耐えざることは明らかなり。今後のために制裁するところあらんことを望むなり」と批判しています。
1月16日、藤に指示を出していた中村は学者声明を危惧し、藤に急遽、釈明会見を開かせます。ちなみに中村は、自ら千里眼実験を行ったことは一度もありません。
会見で藤は「私の過ちによって不成功に終わったが、このために怪しむべき点はいろいろ発見されたのである」と手柄顔に強弁し、郁子の念写は手品であると断言しました。
この会見の内容を知った郁子は次のように激怒します。
「私は藤さんの実験を一度もしていませんのに、どうして詐欺だの手品師だのというのでしょう」
「紙型を当てがってラジウムとかでやるのではないかと疑っているのですけれども、私はラジウムなどというものは今まで知りません」(物理学者などが、念写はラジウム放射線によって人工的に作り出した詐術であると言っていたため)
「この上はぜひ皆さまの力で藤さんを呼んでください。しかし、藤さんが参ります時、短刀を持参して来てくださるように願います。私も懐剣を用意してお目にかかり、今村さん、福来さん、山川さんを始め、その他疑っている人と信じてくださる人との立会いを求めまして、その前にて藤さんの実験と私の実験とをやって比べてみます。藤さんは作ればできるというのでありますから、10分か20分の間あれば、その通りやって貰い見せて頂きます。その上にて私もやります。もう何も申す必要がないのですから、実際やってみるのが一番です」
「いずれか実験に負けたる者は見事腹を切って果つることにしましょう。実験に際して、その約束を契約書で取り交わしましょう。藤さんも男児ならば、この立会実験に来るべきです」
この時の学者に対する怒りを、長尾家は次のように詩で表現しています。
「看破せんとてかんばんの、なきを透視で看破され、陣笠学者はアワテ出し、東の空へ逃げて行く」(郁子)
「テーブル学者の浅智恵で、看破されしを残念と、口惜しまぎれの悪口は、自分の馬鹿を広告す」(娘の愛子)
「井戸の中なるヒキガヘル、見たよな学者がガヤガヤと、騒いで見たとて天地の、大なることは分かりやせぬ」(与吉)
・千鶴子の自殺
この報道を熊本の御船千鶴子も知り激怒、郁子に同情し、自身の透視も手品であると報じた新聞もあったため、悲しみと怒りに気をふさいでいました。
これが引き金となったのか、知った翌日(1月18日)に千鶴子は服毒自殺をしました。25歳の若さでした。
「最初の千里眼婦人として誰もその名を知らぬ者がないほど有名な女」(東京朝日新聞)の自殺に日本中が驚きました。
多くの学者の前で堂々と実験ができるように訓練しようとしていた矢先のことに、福来も大きな衝撃を受けました。
千鶴子の自殺理由についてはいくつか考えられていますが、千鶴子の義兄は、中村が「時々開封した形跡がある」などと詐欺師の如く罵倒した新聞の批判記事が一因ではないかと推測しています。記事を見た千鶴子は、その新聞紙を力を込めて突きやり、「兄さん、どこまで研究してもダメです」と憤慨し、この翌日に自殺したといいます。
・千里眼実験録
千里眼事件から38日後の2月15日、藤と藤原は「千里眼実験録」を出版します。
本の中で、「理学士・藤教篤君を罵る聞きて、遺憾に耐えず。義として微力を顕正に致さんと、決心せしに依るなり」と書かれているように、この本は藤への批判が高まったために出版されたものでした。
この本を彼らが出版した動機について、福来の生涯を綴った本「透視も念写も事実である 福来友吉と千里眼事件」の著者である寺沢龍は次のように言います。
「世間での藤教篤に対する批判と悪評が高まり、学者としての信用失墜の怖れにおびえて、あわただしく作られた釈明本であり、丸亀での乾板入れ忘れ事件が起きてから、わずか38日後の出版である。(権威をつけるために、巻頭には山川が藤にあてた書簡を掲げてあるなど)すべて東京帝国大学理科大学に属する学者たちによって、その後輩の藤教篤を擁護するための陣立てとなっている」
また、藤らの責任で実験ができなかったにもかかわらず、「実験はついに何者かのために不快を懐きて中止するの止むなきに至らしめられたり。実に遺憾の極なり」と被害者の立場をとり、「千里眼一たび世に出でて天下その真偽に惑い、奸催眠術者の徒たちまちに跋扈を極め、迷信を助長し暴利を貪り思想界を擾る。悪まざる可けんや」と正義の士を気取っています。
肝心の本の中身ですが、福来も「その全編が『念写は詐術なり』という憶断の色に染められて、読者をしてそう思わしめるように筆を廻している」と言っているように、終始、詐術であると言わんばかりの内容になっています。
たとえば、次のような記述があります。
「いわゆる精神統一を妨ぐる条件と称せらるるものは、手品を使用し得ざる条件と、非常によく一致していることなり」
「鉛板の型を当て、感光せしめたるものによく似たることなり」
「山川博士等と共に厳密なる実験を行い、長尾夫人の透視および念写は共に疑うべきものなり、と断定せり」
「千里眼の自然消滅を欲したる」
福来は、次のように千里眼実験録に対してまったく相手にしませんでした。
「該著は、結局、藤、藤原両理学士の粗忽と不忠実とを広告したるだけのことで、それ以外には何らの学問的価値を有せざるものである。余は、この忙しい世の中において、斯かる無価値なる研究結果につきて、真面目になって批評するような無用の時間を有しておらぬ」(福来)
念写実験を取材した東京朝日新聞の記者も次のように批判しています。
「この書によって千里眼あるいは念写作用等につき寸毫も得るところはなけれど、日本の物理学者なるものがいかに陋劣なる心事を有せるかを透視するには恰好の著述たるを疑わざる」
「吾人は今日まで山川理学博士を信ずること極めて深かりき。そは物理学者としてにはあらずして全く人格の崇高なる人との意味なりしなり。しかれども丸亀における博士の態度は全く吾人の予想に反したるを遺憾とす。たとひ山川博士は己の本意にあらずと弁明するも、その助手たる藤理学士は一回の実験さえせずして、さも多くの実験を経しものの如き口吻にて非科学的断案を下し、また同じく助手たりし藤原理学士は山川博士黙認のもとに郁子を欺きたりと公言して憚らず。学者の本領が人を欺きて満足し得べきものにや。門外漢たる記者等は想像だに及ばざるところなり」
「要するに、千里眼問題はまったく千里眼そのものの問題にはあらずして、尻の穴の小さき学者たちの排他思想の紛乱なり」
千里眼実験録に対して、与吉は「山川博士の実験に対する意見」と題する小冊子の中で、「その要旨とするところは、誣言曲筆もって余一家の名誉を毀損して、われの能力の信用を破壊せんとするにあるものの如し」と怒りの反撃をしており内容は東京朝日新聞にも掲載されました。
「実験録と称しながら、実験者が乾板を入れ忘れたために肝心の実験ができなかった記録であり、その中身は当時の新聞などにも酷評された如く、科学者の報告書らしからぬ情緒的な憶断と推測で成り立っており、著述者の品性の低劣なることもさらけだしている」(寺沢)
もっと言えば、郁子を陥れるためにわざと入れなかったのではと限りなく疑える状況です。
「この人が丸亀での実験当時に置かれた状況とその心理状態を考えると、私は直感的に彼の挙動に疑いを持っている。あからさまに言えば、乾板は『入れ忘れた』のではなく、彼の当時の言動と状況から推察すると、彼なりの思惑によって乾板をあえて『入れなかった』のだとさえ思えてくる」(寺沢)
「なぜ、藤教篤は乾板をセットし忘れたのか?物理学者ともあろうものが、肝心の検出の要である乾板を忘れることなど、通常はありえない。もし、本当に忘れたのだとすると、物理学者としての素養が疑われるし、万が一、故意にセットしなかったのだとすると、念写実験が終わったあとで、『あ、乾板を入れ忘れました。でも、念写したんですよね?乾板がなかったことに気づきませんでしたか?』というつもりだったのではないかと疑われてもしかたあるまい。(中略)私は、藤教篤は、念写をインチキと決めつけ、それを暴く意図で、故意に乾板を入れ忘れたのだと思う」(竹内薫/科学作家)
・郁子の死
それまで丸亀市民から神仏の如く尊敬されていた郁子でしたが、千里眼事件以来、世間の批判が高まり、一夜にして犯罪者の如く見られるようになりました。
児童らからは「ラジウム」というあだ名をつけられ、外出すれば石を投げられたといいます。
そして、千鶴子の死から1か月ほど後の2月26日、郁子も病気のために死んでしまいます。39歳でした。
当時の朝日新聞は次のように報じました。
「山川理学博士一行の実験に応じたるため、世間に誤解せられ、昨日までは神仏の如く丸亀市民に敬せられしが、一朝にして蛇蝎の如く取沙汰せられ、ついに児童等により『ラジウム』なるあだ名を付せられ、外出すれば石を投ぜらるるに至れりと云ふ。その末路は寧ろ気の毒なりしなり。かくて郁子の千里眼及び念写は、嫉妬深き一部学者の非科学的実験により世に葬られんとすると共にその身は没した」
次のように、郁子は殺されたようなものだと言う人もいます。
「長尾夫人の死は、単なる病気とは私は思いません。わずかな傍杖を喰らった千鶴子でさえ、毒を仰いで自殺した程の大事件です。問題の中心である長尾夫人に、たとえ、どれ程の修養があり、いかほどの女丈夫であるとした所で、思い詰めた無念と憤怒とが、その体に無関係であろうはずがないです」(山本健造/飛騨福来心理学研究所創立者)
郁子がいかに批判に耐えていたかは、次の彼女の辞世の句からもうかがえます。
「ななへやへうきたつくもをかぜのきて、つきのひかりをいつかみるらむ」
「さばへなすしこのしこをさわぐとも、わがまごころはしるひとぞしる」
郁子の死を知った福来はこう言います。
「夫人はますます能力を磨いて、反対学者と戦うことを企てていたのであったのに、ついにその目的を果たさずして倒れたのであった。実に惜しいことであった。しかし夫人が心霊研究界に残した功績は、永久不滅のものとして伝わりいくのである」
福来の能力者に対する目は厳しく、十分研究に値すると認めた能力者は生涯で数人だけです。その中の2人が千鶴子と郁子であり、学術的研究を重視していた福来にとって、生きた証拠であった2人の死は相当な痛手でした。
「千里眼なるものは千鶴子、郁子の2人のみには限りませんが、あの2人はともかく一番能力のよく発達していた者ですが、かく2人とも亡くなってはもう万事休すといわねばなりません」(福来)
千鶴子と郁子が死ぬと反対学者は喜び、世人は「千里眼をやるものは皆死ぬのであろう」などと騒ぎ立てました。
郁子の死から1年1か月後に与吉も病気で死んでしまいます。
千里眼実験録に対してまったく相手にしていなかった福来でしたが、福来は著書「透視と念写」の中で小冊子の内容を掲載しています。福来が研究録を発表する時には、ぜひこれを付録として書き加えてほしいと与吉から懇願されていたためであり、また長尾夫妻が藤らによって世間から詐欺師呼ばわりされていたためです。福来は言います。
「長尾夫妻の霊よ。余の微衷を諒として、幾分の慰籍を得らるるならば、余の満足之にすぎぬのである」
以上、千里眼事件について簡単に説明しました。
登場人物は映画「リング」シリーズのモデルにもなったようなので知っている人も多いでしょう。
真実であれば大発見、詐術であれば大事件という日本中が注目していた実験です。
日本の超心理学の遅れの原因を辿っていくと千里眼事件があるため、もしこれから超心理学が発展して肯定的に受け止められるようになれば、それに比例して藤らの悪名も高くなっていくのではないでしょうか。