三峰健一郎のブログ

徒然草 No.600 江戸の教育を見直す(3)伊藤仁斎の私塾「古義堂」の教育観に学ぼう!

 

「日本国民をつくった教育」(沖田 行司著 ミネルヴァ書房刊)を手にして、「俺の夏休み」をつくったので、読書三昧に日々だ、としたいところなのだが。実際はなかなかそうもいかないのだが……

その中に、寺子屋の数(P97)が掲載されていた。

郷里の信州(長野県)を見たところ、私塾117、1196校もの多くあった。江戸時代では日本全国の中でダントツに多いのである。ちなみに東京(江戸)では、私塾83、寺子屋335校である。江戸(東京)は、どちらもダントツに多いと思っていたのだが、信州に続いて岡山、山口がそれに続く。鹿児島は明治維新で活躍した志士たちがいたのだが、なんと私塾は1校、寺子屋はたった19校だった。

 

「へ〜ぇ⁉︎」と、びっくりした。

そういえば、今は亡き親父に訊いたことを思い出す。

「算盤や読み・書きなんかを何人も集まって勉強したことがある……」

どうも寺子屋らしき集まりであったようだった。もっと詳しく訊いておくべきだったと悔やまれる。郷里は小さな村で人口3000人足らずの村である。だが、小学校の歴史をいつか帰省した折に調べたいと思っている。小川村で分校巡りをした時のことだ。なんでも20校ぐらいの分校が点在していたのだという。驚きであった。

そんなことを考えながら、江戸時代の学校について書かれた著書の「日本国民をつくった教育」を開いて読み出した。その中に、以下のような文章が書かれていた。要約して記載する。

 

江戸時代の後期に活躍した私塾に古義堂の主宰者である「伊藤仁斎(1627〜1705)がいた。仁斎の学問は朱子の解釈を用いず、孔子や孟子の原点を忠実に読もうとするところに教育の特質があるという。師としての仁斎は教える存在であるし、学び教えられる存在でもあった。「教師は学ぶ」というきわめてありふれた教育の真理を見事に実践されていたのである。

 

明治以来の教師像は、「教えてやろう!」という教師像だろう。一声授業について来れなかったら「落第」も戦前にはあったのだ。戦後になって「落第」はあなくなったが、「教師=教える、児童・生徒=教わる」的な構図が多数を占めていた。現在でもこの考えが圧倒的に多い。「教師は教えもするが、学びもする」ということが行われていないのではないだろうか。

江戸後期の伊藤仁斎の古義堂の教育は、「教師は学ぶ」ことを中心にした私塾であった。子ども達に学ぶ大切さを教師をしていて痛感したものである。特に、私は理科教育を取り組みながら「子ども達から学ぶ」ことを心がけてきたつもりであった。そのことがまさに大切な教育論だとこの本を読みながら痛感した。

伊藤仁斎の教育姿勢を現在こそ大事にする必要があると思うのだが………。