眠れぬ夜、気ずくと、あれこれ昔のことを思い出している。
母は次女を自分の実家に預けて、子守胴着から、足が出る程大きくなった三女を、背負い紐で背負って、町の端から端まで「バスがなかった」3キロ程を歩いて駅まで行きそこから一時間くらい電車に乗って耳の悪い次女を、診せに岐阜の耳鼻咽喉科へ一日をきくらいに通院していた。

 正月前に、綿入れの着物と羽織を着せて姿を見せに送って来た叔父に「まだまだもう少し」と嬉しそうな顔をしている子と共に帰らせた母の心情を思う。

その三女の耳は、治っても一寸聞こえの悪い一生であった。
 私は今、母の最後くらいの年齢になって思い出すのは、夫婦二人の所帯になった私達は月に一度くらい、母をねぎらう意味もあって実家に行き皆を誘って外食に連れだしたりした。

ある時散会して、私達夫婦が車に乗ろうとした時、その前を自分の車に乗ろうと横切った次女を

指差して母は「私あの人嫌い」「どうして」「叩くもの」と言った。

 実家の夫婦が商売で遠方に行く時母を預けていく老健に、本町の電気屋へ嫁いでいた次女が暇な時その老健に働きに行っていたのか付き添いだったのか、接触があったのである。

 その頃母は敷地内の蔵の隣りの離れに住んでいた。

風呂に入る時シャンプーを飲み顔が真っ黒になったそうな。

 我が家に二三日預けて行った時はござらっせへ連れていったりしたのに、「星が丘まで送って欲しい、そうしたら電車で家まで帰れる」と私を困らせた。明け方隣りの布団にいる母が「夜中にトイレが解らなかったから、裏の庭木の間で済ませた」と言うので、「どうして起こさなかったの」とびっくりした。

 一時町の婦人会長までした母を私の息子は「母さんは解るみたいだが、僕の事は解らぬようだ」と言う。

 その母も次女もこの世にはもう居ない。長女の私一人を残して五人姉弟みな、夫迄亡くなってしまった。ボケないでいたい。         二千二十五年十二月八日