先日、タイでとある知人の紹介で在タイ 28年という日本人のご夫婦とほんの少し
お話をする機会があった。

ベテラン先輩は、「何か困っていることはないか」と聞いてきたが、
困っているというほどのことは別段ない。

しかし、大先輩の若者に色々教えてあげよう、何かあったらアドバイスを
あげようという空気感を感じ、ありませんとも言えず。

なんとかひねり出して渋滞が多いことと答えた。
それは個人の問題ではないので、大先輩には何のアドバイスもしようもないが。



その後、大先輩とは別れ、紹介してくれた知人(日本から出張で来ていた)と2人で
話している中で、こういう些細ことでも言えばよかったのかと気がついた。

・シャワーのお湯が出にくい。(激熱か常温水で程よい温度が出ない。)
・風呂場にカーテンがないから水が外に飛び散るので、ユニットバスの
 浴槽内に三角座りで縮こまりながらちんまりシャワーを浴びる
・友達がいないので、土日は喫茶店で本を読む等 日本と同じようなことをしている。

かといって、それに対して対策を講じている訳でないので、心底困っている程ではない。
ただ、渋滞と答えるよりは具体的な個人の話も出来るし会話としては盛り上がるかと思う。


心底困ってようが困ってまいが、質問されたら、その時用の答えを持ってないと
いけないなということ。


「タイの生活には慣れましたか」
「タイは楽しいでしょ?」
「普段食事はどうしているんですか」


何て言ったら、遊んでるようにも・贅沢しているとも思われず、そこそこ頑張りながら
淡々とやっていると思われるか。

事実そうでも、私の拙いボキャブラリーではそれが伝わるかどうかは相手の思慮・良心に
かかってしまうことが難点。

建前は建前でも、相応のコメントは準備しておかないとと社会人?ぽくなっていることに、
諦めがつかずおっくうがっていると気付けば30歳も過ぎ数年後痛い人になってしまうでしょうか。

お久しぶりです。

タイ来ているのでブログもたまには書きたいと思いつつ、
プライベートなネタでは書く内容を考えるうちに文字に
することがおっくうになってします。

YouTube見てたらゆず「夏色」の素敵なカバーVerを見つけました。
英語だけでなく、タイ語も磨いていき、ベクトルは違えど彼らのように
表現出来るようになれればと感じたこの頃です。



タイに来て1ヶ月半、週末は何をしているかと言えば、
ゴルフ/サウナ/カフェで読書or語学/映画
ほとんど日本と変わりません。日本でしていたことを
こちらでも出来る場所はまずは探したからですが。。

PS.
バンコクにはいやらしいマッサージ店もあります。
ただ、私は一見いやらしそうじゃないマッサージ店で
普通のマッサージをお願いし、マッサージの途中で
”オファー”がくるパターンの方がより興奮します。

ではまた


人との関係において自分の発する言葉をとにかく、大事にしたい

「背中で語る」ことは、誤解を招き、一生分かり合うことは出来ない

目一杯、自然に相手に想いを伝えられる人間になることが自分の最近の関心事です

アメリカの心理カウンセラー、ゲイリー=チャップマン氏の「The Five Love Languages」という本があります。

その中で、彼は愛の表現方法には5つあると述べています。


①言葉
「一緒にいると楽しい」とか「元気がないけど大丈夫?」などです。これは、「愛してる」とか「好き」とか直接的な表現ではなく、ポジティブな言葉で相手を褒めたり、愛情を示すものです。

②時間
とりたてて多くの会話がなくとも一緒に長く時間を過ごすことで表現します。

③物
プレゼントをして表現するもの。

④行動
口べたなひとがやるやつ。プレゼントも言葉も恥ずかしく、一緒に気軽に長く時間を過ごすような共通の趣味も無い場合によくあるケース。

⑤接触
スキンシップです。軽いのから深いのも全部。




人は、これらのいずれかの”言語”をメインに使って表現しています。
いずれかの言語が使えて、いずれかの言語が使えないということは普通は無いと思います。
どれも万遍なく使い、そして相手から発する”言語”も理解出来ると思います。


私の母親は、心に病を抱えています。子供頃から、母親の愛情を感じた記憶がほとんどありません。

現代風に軽い表現を用いればコミュ症です。

私は、そんな母親に幼い頃からひどいことを言い続けました。母親だとも認めたくないほど憎んでいました。

自分の最大のコンプレックスは母親だと思っていました。

そのことを懺悔したくてブログを綴っている訳ではありません。

幼少からそのような環境で育った私には仕方のないことだとある種開き直っています。

母親に対するこうした心情を理解してもらうことは諦めています。




しかし、私も社会人になり、それなりの年齢に達してきまして、自分の家族と自分自身を客観視することができるようになってきました。

また、母は5つの愛情表現の中でも、②をメインにしてほんの少しの④しか使えないのかなと感じるようになりました。

しかし、私には彼女なりのそうした表現方法がこれまで全く理解出来ませんでした。


日本語と少しの英語が理解出来る私に、へたくそなスペイン語と片言のアラビア語を話しかけているような感じです。

しかし、最近は「なんか言ってんだな」というコトを理解し、耳を傾けようと思えるようになりました。


とはいえ、幼少期から長く続く母親からの呪縛はそう簡単にはぬぐい去れる訳もないので、こうした私の心の変化があったとしても、2、3日一緒にいるだけでとんでもないストレスがかかります。


以前ほどの冷めた見方ではなく、「愛情表現が異なった」のだと思えることが出来るようにはなりました。


こうした生い立ちのせいでしょうか、最近今までにもまして発する言葉の重要性を大変強く意識します。

「言葉を選ぶ」というのは前からそうでしたが、母親に対する気付きをきっかけに、愛情表現をなるべく正確に自然に言葉で表すようにしています。

あなたのコトが知りたい、あなたと一緒にいると、ハッピーになれて楽しいということをダイレクトにいうようにしています。 そうすると相手はやはり応えてくれますし、きちんと中身のあるコミュニケーションがとれていると実感します。 価値観に関わる深い会話も自然に早い段階で出来るようになります。

なぜそんなことをするかというと、やはりその方が楽しい、というのと人生は永遠ではないからです。

今ここで会った人はたとえ親友であっても次にいつ会えるかわかりません。

ちょっとしたパーティで出合った人だってたいていその場限りです。

だったら、全力で愛情表現しないともったいないです。

◯◯回あったら、◯◯年くらいの付き合いがあったら、という感覚はとても時間がもったいないと思います。



限りある出会い、時間を大切にしないと、大切な人を見逃して人生を終えてしまうと思います。

私は、他人から思いやりのある言葉をかけてもらって感動した経験がたくさんあります。5つの愛情表現のなかで「言葉」が最も自分に響きます。だから、自分も「言葉」を大切にし、「言葉」で表現するようにします。

そうしたら、「言葉」をメインの言語に愛情表現する人は少なくとも見逃さないと思います。



自分には、理想の家庭として想像出来る家族がありません。家庭に対して負のイメージばかりです。

自分より大変な環境で育った人は数えきれないほどいることは百も承知ですが、それも自分は小さい頃から一般以上に哀しい経験をして、得るべき愛情を受けることが出来なかったと自覚しています。

だけど、自分の愛情表現の言語を理解し、相手の言語をきちんと理解すればきっといい出会いを得ることが出来ると信じています。

父と母はきっとそんなことをせずに結婚してしまったのでしょう。


そんなこんなで、現在色々な女子と話しながら女性を知り言葉での表現をしています。

趣味に、”女性と話すこと”と書きたいくらい女の人と話すのが大好きです。

楽しいからです。もっともっと自分の愛情表現の言語を磨いていい人と出会いたいです。


出会いの多い職場でもないので、”見逃さない”努力を続け、”外に出る”フットワークの軽さをキープしていきたいと思います。




先日、私の敬愛する上沼恵美子さんがラジオで、旦那とシンガポール旅行に行った話をしていました。

そのとき、とあるピザ屋さんで、上沼さんは名物であるとろとろチーズのピザを周りのお客さんが食べているのをみて、「おいしそうだな」と思ったそうです。

しかし、ウェイターが注文を聞きにくると、旦那はなにも言わずにサラミのピザを注文したそうです。

サラミのピザは、その店でも一押しのメニューという訳でもなく対して美味しくなかったそうです。

上沼さんは悲しくて悲しくて仕方がなかったそうです。なぜ旦那がわざわざサラミのピザを注文したのか理解出来なかったと言います。

しかし、帰りの機内で二人が旅行を振り返る会話をした際、その理由が分かりました。

旦那さんは、上沼さんにぼそっと「お前サラミが好きだったもんな」と言ったそうです。


上沼さんは、常々からとあるスーパーのとあるサラミが好きで頻繁に買ってくるそうです。

そのため、旦那さんは勝手に、「恵美子はサラミが好き」だと決めつけていました。

なので、ピザ屋さんでも何も言わずに「サラミのピザ」を注文することで、”行動で”上沼さんへの愛情を示しました。

「俺はお前の好みを分かっているよ」という具合でしょうか。

しかし、違うんです。上沼さんはサラミ全般ではなく、”あの店のあのサラミ”以外は別に好きではないのです。

上沼さんは、「あぁ40年近く連れ添ってこれか」と思ったそうです。


私はこの話を聞いて思いました。

阿吽の呼吸なんてやはり幻想です。

たとえ何十年連れ添った夫婦であれ、互いの共通言語を理解し、深いコミュニケーションをとり続けないと、知らないうちにどんどん心が離れて行きます。残るのは、◯◯年一緒にいるという空虚な事実だけです。

「あれとって」だけで、何を欲しているかを分かることをもって夫婦の絆などと言っちゃうのは笑止千万の至りです。


サラミのピザの例は、しょうもないものに見えますが私にはとても重要な問題に思えて仕方がないです。

言葉を発する側にも受ける側にも、その重みを認識していない人が多すぎると思います。

恥ずかしいとかでは済まされないと思います。


5つの愛情表現の言語がありますが、自分には、そして多くの人には言葉最も決定的ではないかと思います。

なので今後、より一層言葉を大事にしていきたいと思います。



最後に、

自分の辛かった幼少期を認めてくれたルームメイトに深く感謝したい。

自分は何よりも言葉に感動すること。

母親は愛情表現の言語障害だったこと。

彼のおかげではっきりとそのことを自覚することが出来ました。