村上龍のエッセイ。ここ3年くらいで書かれたものらしい。電車の中で読んで、1日で終わった。すぐ読める。


印象に残ったのは、「飢え」ということについての記述。3回くらいあったと思う。

情報に飢えなければ、必要な情報が何かを見極めることができない。

いい出会いに飢えていなければ(人も、事象もだと思う)、それが運命の出会いだと見極めることができない。

もうひとつは忘れた。が、本の話だったと思う。

とにかくやったほうがいいからやるということじゃなく、何かに枯渇していて、自分が必要としているから、それを選択せざるを得ない、はずだ。というような話が多かった。なんてアツイというか、ぎちぎちでカッコイイ生き方なんだろうと思ったね。彼は超現実主義というか、かなり現実を見つめて生きている。



僕は、何に飢えているんだろう?そうでないとしたら、何が足りていないんだろう。

さてさて、なんやかんやと長い旅も終わった。

福島にて過ごしている。


次はどこに行こうか。腐る前に腰を上げようか。



信頼を失いつつある。



1ヶ月間続けていた旅が、一時的に停止している。

1日のほとんどの時間を自転車に乗って過ごしていた。自分はどれくらい走る事が出来るのか、どれくらいで限界がくるのか、疲労にどれくらい耐える事が出来るのか。そういった事を、走りながら感じていた。
そうして徐々に自分の体に対する信頼を作り、そしてそれは結果的に体をしぼる事になり、自信へと繋がっていた。
それと同時に、1月程度の激しい運動の中で作り上げる自分に対する信頼感は、きっと簡単に崩れうる物だという事も感じていた。まだ積み上げる段階であって、1月自転車に乗っていたという事で確固たる物が生まれるとは思っていなかったし、期間限定だと思ってやっている事にそんな大きな期待を持つ事もなかった。

とにかく前に進む。そしてそれはきっと自信に繋がる。

そう思って辛くても進んできた。

東京に着いて1週間が過ぎた。それまでの疲れを癒すためにのんびりしている。といえば聞こえはいいが、実際は徐々に消耗している。今までに作り上げてきたカラダに対する信頼。毎日何もせずに過ごす中で、また以前のように何もない、所在ない感覚に包まれ、そして信頼を失いつつある。


思考すら生まれない。ぐるぐる思考が回る事もなく、ただただ時間が過ぎるのを待っている。


自分は何かを生み出す事が出来る人間になりたいんじゃないのか。

自分が楽しいと思える事をできることが一番幸せなんじゃないのか。


自分の幸せって何だろう。

何を生み出す事が出来るんだろう。

僕に出来る事ってなんだろう。


そんな事ばかり考えている。



雨が続いている。

雨が上がるのをまって1週間が経過した。


10時くらいに目を覚まして、隣に寝ている友人を起こし、パソコンをいじくる。
友人は学校へ行き、僕は一人で家で待っている。

ネットでドラマを見つけ、ひたすらにそれを見ている。

昨日は夜から飲みにいった。

一昨日は映画を見に行き、3本映画を見た。

夜になると夕飯を2人分作り、一緒にそれを食べ、1時過ぎにまた眠る。

こうして毎日、ただ時間が流れていくのを待っている。


何も生み出していないし、何も、無い。





誰かが言った。
人生は、何もしないには長過ぎるし、何かを為すためには短すぎる。





2日間一緒に居た。


僕は長いこと一人で旅をしていて、人との交流に飢えていた。いや、少なくとも飢えていると自分では思い込んでいた。それはただの思い込みで、僕の感じていた感情はただの寂しさだったのかもしれない。

とにかく僕は一人で2週間近く旅をしていて、いや、正確には初めは2人だった。だから僕が一人でいたのは10日ほどだ。10日。10日という時間は長いようで短い。孤独に震えていた時間を思えば決して短い時間ではないように感じる。しかし実際に経過してしまえば10日なんて早いものだ。過去になってしまえば時間の経過なんてあっという間である。

話がそれた。とにかく10日の間僕は一人でひたすらに自転車を漕いでいたんだ。けれど一人とはいえ1日に誰とも会話をしないと言うことなどなかった。コンビニのアルバイト店員に道を尋ねて、頑張って下さいといわれることもあれば、東京から来たということに驚かれ、話し込んでしまうことも一度ではなかった。それにも関らず僕は激しく孤独を感じていた。もっといえば、”孤独”とおぼしき感情に支配されていた。それは僕にとって孤独という単語で表現する以外に方策の無い言葉だったのだけれど、あるいは世間一般には他の表現が存在しているのかもしれなかった。しかしそれは当時の僕にとって知る由も無いことで、”孤独”という感情はどんな時でも僕の中に巣食い、それは腹の奥のほうにこびりついた腫瘍の様に僕の中から消えることは無く、膨らんでいく一方だったのだ。


そんな中で、友人を呼び出し、半ば無理やりに2日間彼を拘束した。


彼は了承し、僕の腫瘍を溶解させる作業に付き合ってくれた。山に登り飯を食い宿を用意して、ほとんどの支払いをしてくれた。

しかしどうやら僕の腫瘍は昇華されることは無く、ただ色と形を変えただけのようだ。それは以前の、旅に出る前に僕が抱えていた病の様で、そしてそれは非常に厄介なものだった。

昔の友人と共に時間を過ごしたことによって、旅で変化しつつあった僕の腫瘍はその色と形を元に戻しつつあるようだ。


その証拠に僕は既にここに3日間もとどまってしまっている。明日の朝には何としてでもココを発つ。しかし本当は今日出るべきだったのかもしれない。



僕が彼に求めていたこと、あるいは”孤独”と感じていたものは、おそらく理解されたい、開放したいという感情だったのだろう。そういった感情が、繰り返される旅の会話の中で蓄積し、更に彼は悪いことには人の話を聞くことが出来ない。そういった事の積み重ねで僕はイライラし、日常に戻ってしまいそうになっているのだろう。




何はともあれ旅はまだ前半戦が終わったところだ。中篇、後篇と続いていく。






知るべきは、”日常”と、”非日常”。






                                          

男らしさってなんだろうということを考えた。
みんなから好かれることなのか。
一本気であることなのか。

俺の目指すところはどこにあるんだろう。





失うことを恐れたら何もできなくなる。

今日感じたこと、Hの早稲田のみにて。



石ちゃん乙でした。ありがとう。いい仲間を作れるような気がした。翔くんと石ちゃんをみてたら熱くなった。まぁ俺は仲介のが向いてる?とか思ったが。とにかく恐れてはいけないのだ。俺がいけてないとかそれはそれで受け止めてそこから出発しないといけん。とにかく。俺は俺で。彼らは彼らだ。




A 「う~ん、あたしにはなんだかよく分からない話だったわ。彼の小説で最後まで読んだのは2つだけだけど。どちらもあたしの好みじゃないわね。だって何が言いたいか分からないし、ストーリーすらうまくつかめないわ。」

B 「そうだね。確かに何を言いたいのか良く分からないという点には賛成だな。でも、その中で喪失感をうまく表現しているとは思わなかった?」

A 「どうかしら。もっと直接言ってくれないと女は分からないものなのよ。大体分からないことが多すぎるのよ。なぜ彼女は何も言わずに家を出ていったの?それに彼はそのことに気付いていたようだったわ。何の前兆もなかったのによ。それにそのことについて何か説明はあったかしら?」

B 「彼は何もわかっていなかったし、でもどこかで気付いていたんだろうと思うよ。それに彼女の存在はそれほど重要じゃない。」

A 「どういうこと?」

B 「重要じゃないというのは言いすぎかな。でも彼女が家を出て行ったという事実は彼女がいなくなったということ以上の意味を持たないんだと思うよ。この小説の主人公は”僕”だけであって、彼女は、なんと言うか彼をあの場所に導き一人っきりにするための舞台装置のような存在でしかないんだ。だからあの場面では彼女は出て行き”僕”がそのことを了承する必要があった。もっと言えばそれ以上のことは必要じゃなかったんだ。例えば何で出て行ったのかとか、彼女はその後どうなったのかとか、彼女の周りのこまごまとしたことはね。」

A 「ふーん、でもなんだかそれって彼女がかわいそうじゃない?二人一緒に旅に出たのに、舞台装置でしかないなんて。」

B 「人生なんてそんなものだよ。いや、そういうことの繰り返しとでも言うべきか。人は結局一人でしかないし。そこまでいっても自分は自分でしかないんだ。”僕”と彼女が交わった時があったとしてもそれは長い”凡庸な”人生の中では一瞬に過ぎないし。交わっているとは言っても”僕”という主体と”彼女”という客体の関係が変化することはないんだ。永遠にね。人はそれをしばしば求める。それは現実の恋愛だったり友情だったりあるいは映画、小説やゲームなんかにも。でもそれは幻想なんだ。実体のないものなんだよ。その証拠にそういったものは終わりがある。そして終わった後にはそこはかとない喪失感と焦燥に駆られることになる。寂しいもんだよ。」

A 「なんだかよく分からないわ、私には。私は誰かを求めていたいし、それに映画って好きよ。自分の知らない世界を見るみたいで楽しいじゃない。」

B 「それでいいんだよ。皆そういうことを求めるものだし、映画はそうやって発展してきたんだ。でも主体が永遠に自分以外になりえないというのは紛れもない事実だよ。ただそれは気付くか気付かないかというだけの事で、じゃあ気付いたらえらいのかといえばそういうものでもない。知らないことは罪じゃないしね。今は知識や情報が神様みたいにあがめられてるけど、そんなものはたいして意味のあるものじゃないんだ。知識を得たところで今日の食事の心配をする必要がなくなるわけではないし、自分がかわれるわけではないだろう。それよりも重要なのは経験だよ。そしてそれと自分の反応に気付くことだと思うな。反応が分かるということは自分を知るということだ。もちろん自分のことなんて永遠に分かりはしない。でもそういうものなんだよ。」




C 「結局男は野心とともに生きていくんだ。女の君には分からないかもしれないけど、野心のない男なんて死んだも同然なんだよ。その意味で彼はすべてを失っている。”彼女”という愛の対象まで失ってしまった。でもそこから見えたものが重要なんだ。」






”そんなに泣いたのははじめてだった。二時間泣いてからやっと立ち上ることができた。どこにいけばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上り、ズボンについた細かい砂を払った。”
                                     村上 春樹  「羊をめぐる冒険」







A「先のことは分からないですね。自分がどうなっているかも。」
B「そんなこと誰にも分からない。でも人は想像もつかないほど変わる。それでいいのよ。」

B「でも幸せになることをためらわないでください。怖がってはだめよ。人は変わっていくから。」

B「幸せになったときのあなたを見てみたいわ。」




バイトから帰って見るともなくつけていたNHKから、こんな言葉が流れていた。新進気鋭の日本画家と、よく知らないおばちゃんの対談。おそらく大学を卒業したばかりほどの年齢の彼女は、芸術家として生活をしている。おばちゃんは彼女を、痛みがあるから美しいのだといった。傷の中から美しいものが生まれる。しかしそれは誰もが生み出せるものではない。しかし、幸せになった時に生み出させるものを彼女は見たいといった。人が変わったあとで何を作り出すのかをみてみたいと。
芸術という言葉はやはりよく分からないし、芸術家という職業も良く分からない。しかし、優れた芸術作品は、その表現が人生を感じさせるものであり、生きるということの直接の表現が芸術になるのではないかと思う。
たとえ何も知識がなくても感じるもの。。生きているからこそ感じることのできる、感じざるを得ないもの。そして何かしらの”感動”を生み出すもの。それこそが芸術であり、表現なのだろうか。
そう考えると、表現するとはいかに苦しく、難しい作業であることか。生きる子とそれ自体が苦しいものであるごとく。

しかし、人は変わる。いけないのはしり込みすることだ。その場所にとどまろうとし続けること。

幸せになることをためらってはいけない。


エロい話ではない。

ランニングをした。30分ほど家の周りを気が向くままに走る。走る中で感じたことがいくつかあった。それを生の状態のうちにここに記そうと思う。大きく二つ。からだとこころの関係。そして、最後の飛躍である。

話は飛ぶが、引きこもりやニートは多くの場合、1日の大半を部屋の中すごす。食事をするために部屋を出る人がいるとしても、その運動量はたかがしれている。さらに人と対面する機会も減り、運動ひとつに対する緊張の度合いはほぼなくなり筋肉を弛緩させることが極端になくなる。
何がいいたいかというと、彼らの運動量は極端に少ないということだ。かれらはカラダを動かさない。
さらに話が飛ぶが、彼らの多くは自信を失っている。ある人は人間関係に悩み、ある人は仕事に失敗し、ある人は青春に絶望し。様々な理由こそあれ、結果的に彼らは殻に閉じこもる道を選んでいる。そして彼らは自信を失っている。
そして、彼らの運動量の無さがこの自信の喪失を救い難いものになっているのではないかと感じるのだ。
自信とは自分を信じる気持ちである。自分の心を、そしてカラダを信じるこころだ。カラダを動かしカラダの反応を感じる。そしてカラダの動きを知る。この行動の日常的な繰り返しによって、通常の人は自らを信じる心を育てていく。
もうひとつのココロは、外部との接触で自信を作られる。しかし外部は時に思いがけない反応をする。多くの場合、自信を失う人というのはこちらの反応に対処しきれずに拒否反応を起こしてしまうと考えられる。
しかし彼らは日常的にカラダに対する信頼を育んでいない。それは一朝一夕に作られるんものではない。日常での成長が必要なのである。カラダに対する信頼。自信を作ることを行わないと自分には何も無い、虚無感に包まれる。
あなたにはそのカラダがある。そのカラダは自らが信頼するに足るものである。これを肌で感じること。それが大切なのではないか。
自らを見失ってはいけない。カラダを感じる。それだけである。肉体と精神は別のものではない。絶妙に絡み合う。
ランニングをしていてこんなことを考えた。

もうひとつは直接感じただけのことである。20分ほど走っただろうか。久々にカラダを動かしているために痛みはない。明日が怖いが。折り返し家が近づいてきたところで全力で走ってみようと思った。徐々にペースを上げ、ただ少しでも早く前に進む。
腿を上げ、それまで使っていなかった筋肉を動かす。全身が動くのを感じる。
50メートルほど走っただろうか。不覚にもとまってしまったが、かなり気持ち良かった。長距離で走る直後に短距離。ちょうどいいウォーミングアップだったのだろう。かなり気持ちよかった。


また走ろうと思う。




”世の中の 人は何とも云はばいへ
              わがなすことは われのみぞ知る”

  坂本 龍馬