ノリユキくんが言ったという内容を聞きトキムネのお母さんは、自転車をこぎながら頭を抱えてしまった。

 

・・・こんなヒドいことを言うこと自体が問題なんだけど、それをトキちゃんが言っていたとする形にして、訳の分からないようにするところが巧妙でさらにヒドい。

 

こうなると、誰が言ったか言わなかったかの問題になり、みんなが疑われ、真実を知っている人が真実を言うか、全てうやむやになるまで、みんなモヤモヤする。

 

真実を知っているのは、事実と違うことを言った自覚をもっている人だけで、周りの人は、あらゆる可能性の中で、誰もがウソを言っているかのような疑いの目で見ることになる。

 

疑いを持たれた人は、絶対自分はやっていないと言い張るより他なく、そして周りの人は、主張する人がムキになって言い張れば言い張るほど、逆に疑ったりすることもある・・・。

 

真実を知っている子が何も言わなければ、真実は永遠に闇に消え、イヤなことを言われた子はキズついたままになり、どこまでトキちゃんの言った話が真実に近いのか分からないけど、もしその話のままの解釈をすれば、悪口を言ったとをなすり付けられたトキちゃんは、その無実が晴れないまま大人になっていく可能性もあるだろう。

 

真実を知っている人が真実を話さなければ、人の世界の闇は広がるばかりだけど、芥川龍之介の 『竜』 のように、真実を話しても真実などどうでもいいストーリーになってしまうことも多々ある。

 

そんな人の世界に最初で最後の期待を持つとすれば、かなり遠回りなるかも知れないけど、"原初的な仲間意識で全ての人が繋がること" しかない。

 

Van Gogh - Trauernder alter Mann
フィンセント・ファン・ゴッホ 作成: Saint-Rémy, 1890年5月(Wikipediaより)

 

 

 "原初的な仲間意識" は、"この世界は、考えうる限りの最悪の世界" という印象を与える生き物の合理の世界から人々を引き離し、存在することの喜びを人々の中に創造する根源的なもの。

 

もし人々の中の誰かが、"原初的な仲間意識" を無視して、傍若無人に生きようとするならば、それは人間世界に対する脅威であるから、穏やかな仏教界でも恐しげな四天王がいるように、その人を懲らしめ、最終的に人間世界の住人になるようにしていく存在が出てくるだろう。

 

それは、親かも知れないし、友だちかも知れないし、先生や先輩たちかも知れない。さらに、リアルな世界の住人でない場合もあるかも知れない。

 

ノリユキくんがウソついているとすればノリユキくんは、それによって自分の存在の位置が高められたと思う反面、キズついたり闇に落ち込んだりする人が、目の前で生まれているという現実を確実に見ることになる。

 

それを、ノリユキくんが、"仕方のないこと" として無視しようとすれば、現実の世界の住人が無力である場合、怨念だの先祖の霊だのに追い詰められるという話もあるだろう。

 

・・・とりあえず、ナナちゃんに向けられた言葉の悪意の毒を中和してキズを癒し怒りを鎮めて、これ以上複雑なことにならないようにしなくては・・・。

 

・・・しかし、どうやってナナちゃんと接触の機会を持てばいいのか? とトキムネのお母さんは、思いながら幼稚園に到着した。