入学試験があった次の日は日曜日で、トキムネのお母さんたち3人は、家にこもってそれぞれ好きなことをやることにした。

 

"試験の結果は、明日中に届く" という事実をみんな意識しないように、各自、自由に行動した。

 

トキムネのお母さんは、半年ぐらいの入試にまつわるバタバタした毎日と、先日の運動会の疲れも相まって、すっかり魂が抜けたようにぐったり居間でぐったりしていた。

 

トキムネは居間で、『おたすけマニー』 を寝転がって見ていた。

居間にトキムネのお父さんがやってきて、「これ、テストが終わったらやろうと思って買っておいたんだ。」 と、中古で買ったガンダムのゲームを持ってきた。

 

興味を持ったトキムネはすぐにプレステをセッティングし、"機動戦士ガンダム 連邦VSジオンDX" を開始した。

 

トキムネのお母さんは、モニターから流れてくる懐かしいガンダムのBGMを聴きながら今までのことをボーっと考えていた。

 

・・・この半年の間、わたしは何を見てきたのだろうか・・・。

 

早くから入試に取り組んでいた家庭は、もっと長い間、受験活動をやっていたのよね・・・。

別に無理にそんな選択をしなければ、それはそれで別の印象を拾いながら通り過ぎていった時間・・・。

 

その時間はトキムネにとっても一度限りしか通れない道だけど、それは時代にも環境にも能力にも、さまざまなものによって変わっていくもので、はじめからヨコの平等の前提ではない・・・。

 

Van Gogh - Weizenfeld unter einem Gewitterhimmel
フィンセント・ファン・ゴッホ 作成: 1890-07(Wikipediaより)

 

 

 ・・・ヨコの平等の究極なものは、魂の安息の地、極楽浄土や天国や桃源郷で、現実世界にそれを作ることができるかどうかという、人間集団の努力目標になっている。

 

しかし、現実的な自己保存の問題と消費の優先順位の問題を暫定的に解決していくものとして、タテの平等は肉体を持つ限り、生き物の合理として残り続けている。

 

タテの平等=生き物の合理=能力あるものがこの世界で優先して生きていてもよい原則、ということを小さな頃から競争で学んできて、いざ、"弱者救済" という人間集団ならではの概念にぶつかった時、人々は、自分の中の原初的な仲間意識=仏性を呼び起こして対処することになるだろう。

 

しかし、人間の集団ゆえの概念である、"弱者救済" の思考を利用して、消費の優先順位を上げようとする戦略の者たち (力への意志=生命体の思考=生きていてもよい理由・消費してもよい理由争い) に出会った時、人々は原初的な仲間意識の限界を感じ、"自然淘汰" の肯定側へ傾くことも考えられる。

 

そんなブレまくりの不確実な世界の中で生きていくためには、限定されたタテの平等は必要なんだろうと、わたしは言うより他ない。

 

だけど、タテの平等をできる限り限定し、ヨコの平等の地平を広げていくことが、これまでの歴史の中で一進一退はするものの、ゆっくりと向かっている方向のようにわたしには思える・・・。

 

わたしたちは、"自然淘汰" の現実世界の中で、"弱者救済" を実現させることができるのか・・・。

 

ともかく、どの宗教の根本的な原則であるはずの、"ほんとうのこころで人々がつながる" ことがなければ、極楽浄土や天国、桃源郷への道は開かれないだろう。

 

消費の優先順位争いとは別次元で、"ほんとうのこころでつながる" とは、どんな状態なんだろうか?

 

・・・AIに、この、"自然淘汰" と、"弱者救済" の概念をディープラーニングさせた場合どんな結論を出すのだろうか・・・?

 

「ギャー! くそーやられたー!」

トキムネは、プログラムの操る命中率の高いビグロに撃墜された。