何でオレはこんなこと考えているのだろうかと思いながらトキムネのお父さんは、帰り道もまた、おじいちゃんの車を先導して車を走らせた。

 

アイちゃんとユキちゃんは、もう一晩おじいちゃんたちの家に泊まるらしくておじいちゃんの運転する車に乗り、ショウゴパパとチヒロママは、電車で帰っていった。

 

しばらく高速を快適なスピードで走り続けたので、トキムネも後ろの車の2人も気持ちよくなって寝てしまったようだった。

 

「・・・今の時代、アミューズメント施設もいろいろあって面白いね。労働をアミューズメントにしてしまうというのがすごいと思ってさ。・・・今日一日、働くことについてずっと考えていたよ。」

と運転をしながらトキムネのお父さんは、トキムネのお母さんに言った。

 

「う〜ん。働くということには、仕事と労働の違い、報酬とキャリア、人生の時間との兼ね合いなど、生きていく上で重要なものが凝縮されているけど、ここでは、いろいろな職種があるとはいえ、自分の労働力を売ってお金に変えるだけみたいな印象になってしまうわね。

 

働くことに対して子どもたちが、そんな固定概念を持ってしまうかも知れない部分は確かにあるわね。」

とトキムネのお母さんは言った。

 

Van Gogh - Bauer, Unkraut verbrennend
フィンセント・ファン・ゴッホ 作成: 1883年9月30日(Wikipediaより)

 

 

「そうなんだ。また、"典座" の話になってしまうけど、他人に対する仕事や労働は基本的に集団の中の行為なので、"なぜオレがそんなことするんだ" とか、"わたしばっかりやっている" とか思ったりと、立場や関係性の中で、どうしてもタテの意識が浮かんできてしまうでしょ?

 

それらの意識を全て排除し、ヨコの意識の中で自分の気持ちを穏やかにして、さらにそんな意識さえも超え、仕事を淡々とやり続けることで自分自身の中の人間の核心を見るといった、"典座" のようなことの末に見える景色は、仕事や労働を消費の優先順位争いの道具と思っていたのでは辿り着けない景色なんだよね。

 

だけど、そこまで求めたい人ばかりじゃないから、仕事や労働に対する考え方の温度差はかなりあるだろうし、仕事や労働の結果として手にするお金の考え方も変わってくるのだろう。

 

その温度差によって、お金に対するアプローチの仕方は変わり、本来、集団の幸福度を上げた者への報酬的な意味合いのお金が、集団の幸福度など関係なく売上を作った者に消費の優先権を与えるという、"形式" だけが勝手に進んでいくようになっちゃう・・・。

 

あまりにも、"形式" だけが勝手に先に進みすぎて、ひとのこころが置いてけぼり食らっているような気がオレにはしてくるんだよねぇ。

 

何度も言うかもしれないけど、"そういうことですから" とか、"そういうようになっていますから" というように、"形式" で相手を黙らせようとする、"タテの平等" が、"ヨコの平等" をこのまま無視し続けると、スッゲーやばい世界がやってくるよ・・・。」

 

トキムネのお父さんがバックミラーで後部座席ををちらりと見ると、今回もまたトキムネのお母さんは、トキムネのチャイルドシートに寄りかかって寝むりに落ちていた。