トキムネのお母さんはいつものように夜遅く、トキムネのお父さんと最近のトキムネについて話した。

 

「・・・耐えた先に見えなかったものが見えるようになる。』 ということを実感するのは、なかなか難しいことだよね。

『読書百遍、意自ずから通ず。』 って言うのも分かるけど、何度も同じ本を読むのは、なかなか耐えられないじゃない?

 

おれ、"7回読み" だって耐えられないよ。

こういうことに耐えられる人たちが、普通の人には見えない景色を見ることができるんだろうよ。

 

『マシュマロテスト』 も、言っていることは同じなんだろう。

将来の素晴らしい景色を信じて、今を耐えることがどうやったらできるのかっていうことでね。

 

でもさ、おれ、『読書百遍・・・』 的な体験をしたことがあって、それ以来、耐えることに対して意識が変わったんだ。

 

おれが学生だった時、一般教養科目の講義で、めちゃくちゃ声が小さくてボソボソしゃべるので有名な教授がいたんだ。

 

楽に単位くれるから割と受講生がたくさん出席していたど、どれだけまともに聴いていたか分からない状態でさ。

 

たまたま授業の枠が空いていたから、おれはその教授の講義を入れたんだ。

 

Van Gogh - Selbstbildnis (Paul Gauguin gewidmet)
フィンセント・ファン・ゴッホ 作成: Arles, 1888年9月(Wikipediaより)

 

 

 やはりうわさ通りで、その教授はマイクに近すぎでしゃべっているせいか不明瞭な喋り方で、独特な抑揚もあってさらに聞きづらくしていたんだ。

 

おれは、周りのみんながリアルにラリホーの呪文を掛けられてのを見ているようでさ、いい感じでばたばたと眠りに落ちていった。

 

みんなのそんな状態を見ると、おれの中のあまのじゃく根性が出てきて、意地になって呪文を聴き続けようと思ったんだ。

 

そんな感じで数ヶ月経った頃、ついにおれは、教授の言葉が明瞭に聴こえるようになった。

 

おれは、猛烈に感動した。

 

それは、霧が晴れるかのように、ひとつひとつの言葉がクリアーになって、耳から自然と流れ入るようだった。

 

それから、どんな難しい内容の講義も講演会も耐えて聴いているうちに、サァーっと分かり始める瞬間があるって確信したんだ。

 

この感覚を早いうちから得ている子は、耐えることを、むしろ喜んでいたりするんだろうね。

 

しかし、ボソボソしゃべる教授の講義で、大半の学生が耐えられなかったことの方に注目すると、自ら進んで耐えられる人は基本的に少ないってことだよね。

 

おれは、たまたまあまのじゃく根性が顔を出したから耐えられたけど、そうでなかったら間違いなく寝ていたかサボっていた。

 

ダイエットなんかのように、先にいいことがあることが分かっていても耐えるのって難しいでしょ?

 

耐えることで乗り越えられる能力は、生まれながらに背負ってきた宿命の違いなんだろうか?

あるいは、精神修行のようなもので意識改革できるものなんだろうか?

 

そして、『マシュマロテスト』 で耐えられなかった子たちを、耐えられた子たちはどう思うのだろう?

自分は耐えて乗り越えてきたのだから、乗り越えられなかった者たちは生きる価値なしと思うのだろうか?

 

耐えることと耐えた後の問題、つまり、修行して悟った後に何をするのかという問題が、今も昔もこれからも、人の世の1番の問題なのかも知れないね。」