高校サッカーを見に行った。

3年生の息子は応援。

応援というのは、実は非常に重要な役割で、勝敗を左右するほどの意味を持っている。

だからこそ、Jリーグにサポーターが、ジャニーズにはファンクラブがある。

 

小学生のころ、野球少年だった。

田んぼの稲刈り跡、切り株の残るぬかるみで、ルールもあやふやなまま、投げて打って走った。

昭和の田舎には他に遊びの選択肢はなかった。

舞台は、学校のグラウンドに移り、ズックはスパイクに、ポリエステルのTシャツと短パンは

巨人軍のユニフォームにかわった。

野球といえば、野次だった。

「ピッチャーびびってるよ。」

「ボールにハエが止まってるよ」

昭和の田舎は、大人も子供も粗野だった。

相手が三振したら

「ママに慰めてもらえよ」

とにかく、いかに口汚くののしって、威嚇して、あわよくば、戦意喪失させようという

まるでどこかの国のプロパガンダのような、それが応援だと思っていた。

 

高校はテニス部に入った。

コーチは、一年生のベンチウォーマーに対して、応援で勝たせろと鼓舞した。

声の限り叫んだ。

さすがに、小学生みたいに汚いことは言わない。

相手がミスをすると、声の限り「ラッキー」と叫んだ。

何度も叫んで、威嚇し、相手が意気消沈せよ、と願った。

足がスベれ、ミスしろ、ケガしろと願った。

 

今日の高校サッカーの応援は、そうではなかった。

歌を歌い、仲間を鼓舞し、相手を敬う。

これがこそスポーツの本質だ。

フィールドでプレイしていると、どの競技であれ、そこは異常な世界で、興奮状態で、混沌であり、

自己喪失まで追い込まれているのが常だ。

しかし、そこで、ふと、仲間の声が聞こえる。

頑張れという声が、落ち着けという声が、ナイスという声が、ドンマイ、切り替えろ。

それが具体的に、何かの行動に結びついたり、ましては結果にはたどり着くまい。

しかし、声の限り叫んだ声が、気持を込めた歌が、喧騒の中でも不思議なほど選手には届く。

プレイヤーは、ハッとする。

味方の声で安心し、平常心を取り戻す。

リラックスして、本来のパフォーマンスを発揮する。

知っている声というものは、意外なほど、興奮していても、喧騒の中でも、遠くのプレイヤーにも届く。

その安心感こそが、集中力を高める。

 

これこそが、応援の効果であり、応援で勝たせるということの本来の意味だと思った。

サッカーという競技は本当に面白い。

勝利の行方を見通すことが難しいというところが面白い。

今日で一つの区切りがついたが、この単純でありながら、奥深いゲームに心をあずけようと思う。