1992年の秋、第一期マリーアンドファナーズはそのキャリアをスタートしました。
ボーカル&ギター鬼丸、ギター佐々木、ドラムス舛野、ベース千田の布陣です。
メンバーが名古屋と大阪に分かれて住んでいるので、練習は主に盆、暮れ、ゴールデンウィークの
長期休暇の時だけです。
まさしく、離れて暮らす恋人同士のような遠距離恋愛バンドです。
それでも時間をやりくりしスタジオで練習を重ね、弾き語りだったメトロでGOにバンドアレンジを施しました。
ベースラインは4度の音程を3弦と4弦を使い4分音符で交互に弾くパターンをメインに、
ドラムはハイハットの裏打ち8ビート、セッションをするたびに次々と新しいアイデアが沸いてきたのでした。
軽やかなベースライン、週末の仕事終わりに、さあ遊びに行くぞという解放感に満ちた曲になりました。
バンド経験の浅い舛野と千田には技術的に少し難しい演奏でしたが、曲、詞とアレンジのマッチングが絶妙
だったので、あえて単純化せずにいこうと決め、現在に至るまで基本的なところは変更していません。
この二人が、この曲の良さを深く理解し、努力を重ねてくれたことがこのバンドの原動力だったと思います。
ここで、少し時代をさかのぼって私の大学時代の軽音楽部のことに触れておこうと思います。
1982年、生まれ育った福岡を離れ、京都産業大学に入学し、大学が運営する追分寮に入寮しました。
門限22時、大学は学ラン着用で登校、他にも厳しい規則、規律のある寮でした。
武道系のクラブも学ラン着用なので、新入寮生は応援団や武道系クラブに強く勧誘されるのでした。
それから逃れる最も合理的な方法がどこかのクラブに入ってしまうことでした。
軽音楽部も新入生勧誘をしていたので、話を聞いてみることにしました。
大学の軽音ってジャズ系というのが一般的なイメージでしたが、このクラブはロックの活動も活発とのこと
だったので、ここに入部することにしました。
バンド単位での活動なのですが、先輩はいろいろと教えてくれました。
練習の仕方、音を大きくし過ぎないこと、互いの音をよく聞くこと、アンサンブル、ダイナミクス、リズムの取り方、
ギターの音作りの基本、ドラムとベースの関係、ボーカルが聞こえることを最優先することなどで、それらは、
私の大きな財産となりました。
マリーアンドファナーズは、そういった技術的なことを積み重ねるほどの時間がないと思っていました。
社会人であること、そして遠距離恋愛バンドだからです。
しかし、テクニックではあまたのバンドの後塵を拝したとしても、我々には強い武器がありました。
それは千田が書く不思議な詞でした。
作詞ノートはすでに2冊になっていました。
先の「狂気セッション」の即興曲の元になった千田の詞は、生きた言葉で書いてありました。
おそらく作り物ではない、日々の生活の中で思ったこと、憤ったこと、悩んだこと、そういった心の叫びだったのでしょう。
ノートのページを開けば、その詞はすでにメロディーとリズムを持っていました。
さらに驚くべき才能を発揮し始めたのが佐々木でした。
千田の詞に次々と曲を付けていったのです。
これが、調性やリズム、テンポなどバリエーションに富んでいて、しかも短期間で驚くほど多くの曲を作りました。
それらを演奏し、アレンジしてゆく中で、自然とレパートリーが増えてゆきました。
私も曲を作り始めました。
詞も書くのですが、千田の詞のクオリティーに負けないことを今も意識し続けています。
バンドの演奏は下手でしたが、詞の良さと曲のバリエーションの豊富さが大きな自信となり活動の支えとなりました。
そして、’94年10月30日大阪中之島野外音楽堂の企画ライブで初お披露目となりました。
’95年7月23日大阪アムホール、’96年8月3日神戸市岡本サマーフェスティバル、とライブを重ねました。
大学を卒業したとき、そしてキセバンドも解散し、もうバンドはできないかもしれないとまで思った日々からは想像も
出来ないほど充実した気持ちでした。
そしてそれは本当に自分のやりたい表現であり、自分の追求したい音楽だったのです。
しかし、マリーアンドファナーズは、’96年を最後にライブから遠ざかることになるのです。
つづく