「ガリ勉」っていう言葉があるけど、これの音楽家バージョンで「ガリ練」っていう言葉を同僚が使ってて、「あぁ、ガリ練なんていつからしてないかなぁ」って思いました。
先日、Youtubeでショスタコーヴィチの1番のシンフォニーを聴いていて、最近はクラシックはオケの仕事の準備で聴くばっかりで見失ってけど「仕事の資料」としてじゃなくて「オーケストラのコンサート」として突然客観的に見えてきてハッとさせられた。
指揮者とか楽団員とか燕尾服とか、そういうのが学生時代に見たあの感覚で突然見えてきたというか。あぁ、いつか舞台の上の、あちら側の人間になりたいって本当に本当に本っっ当に切望してたなぁって思う。オーケストラに入ることが青春の全てだったくらいに切望してた。
最近、オーケストラをプライベートで聴く時間ってすごく減っていて、本番1回にかける神経のすり減らし具合もなんかこう昔の全力投球感がなく、、、ここで「いやいや、若いときと違って経験値も上がったし」とか「20代の頑張り方と30代の頑張り方は違うよね」って思い込もうとしてたんだけど、心のどこかでは「なんか違うなぁ、そういう事ではないんだよなぁ」って思ってて。認めたくないけどやっぱりそれは年齢や頑張り方の違いじゃなくて、単純に頑張れてないことへの言い訳です。
オーディションがあるから、
コンクールがあるから、試験があるから頑張れるのは当たり前だと思う。でもその頑張りの本質が「音楽と作曲家に対するリスペクト」という芸術的行為ではなく、「他人からの評価を得たい」という薄っぺらい欲目からきている頑張りだったら、30代、40代、50代と年齢を重ねるごとに頑張れなくなるだろうと思う。
これはさらに認めたくないけど、最近、自分はクラシック音楽を心の底から愛してオーケストラに入りたかったんじゃなくて、オーケストラに入ることに付随してくる他人の評価が欲しかっただけのゲス野郎なんじゃないかと思って悩んだ。だからまだまだ自分の音楽に満足なんか全く出来てないくせに「年齢が、、」なんていう言い訳が出てくるんじゃないかと思う。
本当に音楽が人が生きる上で不可欠のもので、自身も音楽がなければ死んだも同然だと思っていたら、多分そもそもこういう壁には当たらないだろうと思うし、楽器が上手いとか下手じゃなくて本来はそういう人間こそが本当の意味での音楽家としての才能の持ち主だと思う。「no music is no life」って聞くと、自分は音を売って食べてるくせに「はぁ?なんで?生きてく上で大事な物の順位で行ったら音楽ってかなり最後でしょ?まずコメだろ、コメ!!」って思ってますもん、自分。こういう考えをもった人間は本質的には資質がないんじゃないか?っていう葛藤。
ファゴットを始めてから、楽器を吹く才能に対してはずっと悩んでるけど、音楽家としての本質的な熱意に悩んだことがなかったのでかなり考えさせられました。
34才の自分は評価のために頑張ってきたのかもしれないと初めて悩んで、でも言い訳抜きで今出来ることをやってみたいって思っているのも事実だから、とりあえず1週間「ガリ練」します。