昨日、しばらく離れていた実家へ足を運びました。

それまで自殺願望がとても激しく、ふいと死のうとしたり、飛び降りようとしたり、大変でした。

自分では止めることができず、彼氏さんに支えてもらってばっかでした、

 

「2日後に死のう。明日かもしれないし3日後かもしれないけど」って私は普段のアカウントではなく別の垢でツイートし

そのあとに、まって、死ぬなら最後に過去見て来よう、そこでも死ねるし別にみてからでもいい。ってなってきて

私は、ツイートしまくって思考をある程度まとめた後に、怖くて仕方がない自分、でも向き合いたい自分、死ねるならこれくらいできないとね。って開き直ってる自分っていて、コロコロ変わる感情についていけず、覚悟きめてほんとは今日行くはずだったのを早めに昨日行ってきました。

 

電車まで行った。何ともなかった。電車に乗った、マスクしてる人が沢山いるな、位だった、

最寄りの駅に着いた。セクハラの被害にあった場所でもあり、仕事のスキルもそこで覚えた。ちょっと怖かった。

そこから、コンビニで水2ℓ、塩を買って、タクシーで実家へ。

途中で、「あ、飲み物買い忘れた」とかそんなこと考えてたら、一気に嫌悪感に襲われた。

あ、、来なければよかった。そう思ったよ。「ひとりじゃない」、「大丈夫、頑張れる」そう心で唱えながら家の前についた。

 

見た時一番最初に思ったのが、荒んでるけど全く変わってないな。だった

玄関には、沢山の手紙が袋に入ってあった。ポストは満タンだった。もう…誰もいないんだな。ってなりながら、かばんと水を玄関の外に置き、鍵がなかなか開かなくて困りながらも、開いたとき、あ。家だ。って、私何でここに来たんだっけ、なんでこの家こんなに荒れてんのってなったの。玄関の扉は開けたまま私は中に入った。

 

手紙やゴミで散乱している我が家、靴は履いたまま上がった。倒れてもいいように服は汚れてもいいのを着ていった。

異臭がすごかった。居間に行った途端フラッシュバックがすごくて、頭が割れそうだった。

頭が割れそう、チカチカする、意識葛藤してる…このまま終わるのかな。そう思いながらも周りの物を漁ったんだ。

私は4人家族だった。5歳下の弟がいるんだけど弟は溺愛されていた。見渡すと弟の子供のころのはあっても私のがなかった。

それでもあるかなって漁ったけどその時は見つけきれなくて、絶望感でさらにフラバが悪化していって

「私、必要あった? 産まれてよかった? 生きててよかった? ごめんねこんな子で 悪い子でごめんね」って泣いて、叫んで。

ポケットに手を入れた時何かが当たった、それがスマホだった。その時に何でだろう、ふと画面を見たんだ。

そしたら、LINEで彼氏から「一人じゃないからね」って来てて、それでまた泣いて、もう馬鹿。って言いながらふいと周り見たんだ

 

そしたら、壁に私と弟の写真が飾ってあった。「あるじゃない、あったじゃん…置いててくれたんだ…」ってまた泣いて

そこからは、何度も引き起こしてるフラバと泣きながら、対面していった。

 

ここで、的代わりにされた。 

「でも、その時、私はここにいたけど、今私はここに立ってるし、今立ってるのが今の自分だよね、配置も違うよね。」

 

ここで縛られた、殴られた。

「私ここに立ってる。そこには幼い私はいるけど、私は今ここにいるよね、それに散らかってないよね。」って。

 

いろんな場面で何度も起こすフラッシュバックに何度も自分に言い聞かせて、落ち着いたら違う場所。全部見て回った。

勿論、無理なとこもあったよ、受け入れができないところもあった、そこは飛ばした。

なんで無理かは、なんで体が拒否ったのかは、最後物を物色しているときに、首輪とチェーン。縄。結束バンド等を見て思い出すことになる

これは、できれば思い出したくはないからずっと思い出さずに数年間記憶がない状態の一つ。監禁だった。

私が部屋の1つをどうしても直視できなかったのも、それだった。内容まではふいと出たけどすぐ消えちゃった。それでいいと思う。

 

わぁぁぁああって泣きながらパニックになってしまって、「包丁どこかな。」ってふいに言葉が出て、台所に行こうとしたときに

1つの家族写真を見つけたの。そこに私と弟とお母さんがどこかに行ってる写真だった。それが目に入って「ああ…戻らなきゃ」ってなって私は戻れた。そのころにはフラッシュバックは収まってた。

これは多分書いてないかな、あえて書かなかった。書く必要もないと思ったから。

ブログには書かせてもらってますが、Twitterには色々混ぜたような気がする。混乱はまだしていた。

 

そのあとは、その写真を持って、しばらく家を眺めて、タクシー呼んで、玄関で「ありがとう。」ってお辞儀して玄関の扉を閉めた。

 

最寄りについて頓服飲んで、駅のホームに行ったけど、落ち着いてるはずなのに、落ちてしまいたいっていう私が居た。

線路に落ちる寸前の所を歩いても、ここから落ちたら、楽なのかな。そんなのばかり考えてた。

特急が来たときはほんとに走りかけてる自分が居て、止めるのに必死だった、椅子に座っていたから椅子に体を押し付けてた。

そのあと、私が乗る電車が来た時ふいと立ってしまって、あ、やばい。ってなりながら、黄色い線の外側、すれすれのところで立ってた

徐行してるな…運転手さんよく見えるな…。ここ飛んでも徐行してるし。って考えてたら止まっちゃってた

だからもう乗って。Twitterとにらめっこ。彼氏もラインしてくれてたから、何とか耐えて家に帰りついた。

帰りついたら後は楽だった、もう一個やることがある。それしたら終わりだ。って思いながら養父の帰宅を待ち

アルバムを後は見てた、最初に出てきたのは母親の形見だった。

その次に出てきたのは、命名って書いてる、私の名前の紙だった。

どんな想いで、親は、これをずっと保管していたのだろう。そう思いながら私はアルバムを開いたんだけど

最初に見たのは保育器にいる私だった。保育器にいる私、抱っこしている母親。1814㎏と書かれた紙。

そこからはいろんな私が居た、お前ら誰やねんって人もいた。。家にいる私は見つからなかったけれど、いろんな人に愛されていた。

 

ぶっちゃけ弟が生まれてから私は、愛想笑いか笑ってない無表情の私の写真が多かった、そこから写真は途切れてた。

そこからは弟のアルバムにあるんだろう、私は見ることはないだろうね。

2人親は流産していて、私が初の子供だったんだ、なら何で…って今では思うけど。

子供2人いて、後からできる子供を溺愛し、先に生まれた子を虐待するケースは稀ではないんだよね。

日常的であり、児童養護施設に入所形式入院をしていて、児相とも18歳までかかわりを持ち、他人が見る前でも暴力は受けていた

でも、引きずっているのは、囚われているのは、全部過去であり、今は彼氏もいれば、養父という違う「父親」がいる

環境面も全然違い、暴力振るう人なんて、ほとんどいない。たまーに養父がキレてくるくらいだ。

そのくらいならね、現在のほうがずっと楽なんだよね、私はそれを見ないで、見ようともしなかった。過去ばかり見ていた。

だからずっと、つらかった。過去ばかり見ていると、トラウマも強くなる。苦しくなるのはそのせいだ

 

でもね、記憶は消えることはないよ。つらい記憶ほど、繊細に残ってるんだよ

でもね、忘れろなんて誰も言ってないし忘れることができないから、区別がつけれるように乗り切れるようになろうって言ってくれてたんだ

消えることがないからきっと思い出すたびに苦しくはなるよ、でも前よりはないはずなんだ。

 

私は、この選択は今回は賭けだった。壊れてしまって死ぬならその時だってそう思ってた。

でも実際は違った、やってよかったとおもってる。ケジメはついたかな。やってなかったら今日も死にたいって言ってるだろうね。

ODや自傷はきのうからしたいって思わない。いつまで続くかはわからない。深くは考えない、

 

いいんだ。とりあえずいまはこれでいいんだ。

とりあえずきのうはこれだった。

今日のこともあるけど、それは、おいおい、自分の中で解決したときに書こうと思います。