はい。虐待のテーマは何度目かな。

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また今度ブログテーマの見直しをしますね。
PCでしかできないぽいので、、。
虐待って言っても、色々ありますよね。
・ネグレクト(育児放棄)
・性的虐待
・身体的虐待
・心理的虐待
・代理ミュンヒハウゼン症候群
などなど。
虐待された子供はどんな環境で育つのか。
虐待から解放されたら、どうなるのか。
テレビや雑誌では散々取り上げられてはいますが
自分のことを今回、あげます。
体調の悪い方などは、プラウザバックを推薦します。
私は、幼少期からどうやら虐待を受けていたようです。ですが、0歳の時は自分の親には育てられていませんが、祖母に育てられていたため、愛情を受けていたがどうかは定かではありません。
私は1802gの未熟児でした。
最初に産まれたので、少しは大事にされてたとは思いたいです。ここまでいきてたので。
私に記憶があるのは3歳か4歳からです。
その頃にはもう、親元に居たのは覚えています
お母さんには、もう1人の命が宿っていました。
ここからはもう、母親から愛情を受けた事がありません。
母親は摂食障害があり、入退院が激しく、家に居ませんでしたから。
私は祖母の家と家を交互に行きながら生活してました。
そして、弟が産まれ、私の虐待が始まりました。
最初は、育児のストレスだったんでしょう。
家事を手伝う事を支持され、お風呂掃除、洗濯などを叩き込まれました。私はその時5歳でした。
6歳になり、小学生に上がることになり、弟は1歳
保育園に預けて、私は学校が終わったら、学童保育がその保育園にはあり、行くように指示され、学校後毎日保育園に通い、親が迎えに来るまで弟の面倒を見る係をしてました。
帰ったら、掃除。勉強所ではない。
でも、成績が下がれば父親から凄い叱られた。
父親は夜勤が多く、土日は休みだったので、ほんと叱られることが多かった。
小2。掛け算ができなかった。
勉強所ではない。家事で精一杯。弟の面倒も見なきゃいけない。。お母さんは働きたいと言い出した。
算数のテスト結果でお父さんが大激怒。
私は机に縛られ1の段から9の段まで毎日1冊書くまで寝る事を許してもらえなかった。
当然お風呂に入る時間もない。この頃からいじめもはじまった。
この頃から私は少しおかしくなってた。
頭の中では「死ぬ」という事はまだ理解できないはずだろうけど、みんな寝てる、祖母の家に遊びに行った時、私は、「お父さん、お母さん、おばあちゃん、ごめんね」って泣きながら、お腹に包丁刺す練習をしていた。
この時点で私は、自覚のない「死」をやろうとしていた。
少3
お父さんとお母さんが喜んでる。
何かと思えば、かおだちの良い、弟が芸能オーディションの第1次書類を通過したらしい。
そこから私は完全に孤立した…。
ネタを出せば叩かれた。
ネタがなければ無理やり出しては叩かれた。
お酒を飲めば夫婦喧嘩をしていた。
止めるのは私。でも止めたら…私が殴られた。
骨が折れた事も、顔にあざが出来たことも、
頭がタンコブだらけになった事も。
家事は掃除、洗濯、お風呂掃除、どんどん増えていった。
小学生4.5.6
私は何度も家出した。
助けを呼べないからだ。
親は、捜索願を出していた。
帰ると、学校の先生、警察、消防車、パトカー、救急車までいた。
目の前で泣いて、同情を買い、解散して家にいれた途端殴られて縛られた。
そして真冬の廊下に放置された。
私の家出は2日に1度起きた。
気がついてほしい。助けて欲しい。
もう、殴られたくない。
でも、結果はいつも同じだった。
小学6年生、夏休みに演劇があり、原爆の様子をみんなでやるのがあり、私は親の命令で全て参加出来なかった。そしたら先生に呼ばれた。
仕方ない…と行くしかなかった。
私は倒れて死にそうな爆発後の死にそうな人の役になっていて、私のセリフは「死にたくない」と大きく叫ぶ事だった。
私はそれが小学生6年生でもう演技だも分かっててもできなかった。死にたくないの?って。死にたくないなんて言いたくない。。死にたくないを言うのに1時間かかり、泣きそうになりながら「死にたくない」を大声で叫び。開放された。
その後帰ったら、学校に行ったのがバレて
親に殴られたのは言うまでもない。
「甘えたいよ、お母さん私を見てよ。」
「私は何のために産んだの?」
「私は目障りなの?お母さん。」
「お父さんなんでいつも殴るの?」
「なんで殴る前に言葉で言ってくれないの?」
「私はサンドバッグなのかな…」
「誰か、たすけてよ。」
初めて、暴力の跡を教師に話した。
児相が動いた。でも…親の外ズラが強かった。
「しつけ」で片付けてしまった。
私は、どうしようもなかった。
毎日、高熱出して、心理的なもんと判断され、保健室に毎日行き、怪我の手当だけしてもらった。
年明け後私は2ヶ月学校を休んだ。
高熱続きだったから、問題なかった。
でも家では。。灯油をふろ場でかけられ悲惨な状況でした。やっと落ちてきた…と思った時にお父さんからの性的虐待。
酔っ払い。お酒くさい。逆らうと何されるかわからない。全部やられましたけど。
私は、もう精神が麻痺していた。
中学生。
お父さんが新しいおもちゃを見つけた。
ガススタンガン。BB段でまとめがけて遊ぶやつ。
的が壊れたら、私は的替わりにされた。
顔には当たらないように必死に顔だけは避けて
体で受けて、全身アザまみれ。
中学は、色々少し違った。
私は学校を言っても教室に上がれなくなった
スクールカウンセラーを受けることになった。
家にも、学校にも、居場所がない。
タスケテ。この頃から自傷行為を始めた。
親が夜間の介護職を始めた。
私も行く事になった。
でも、私は…。親は12時から6時までねて。
私は学校終わってそこから起きてみんなの面倒を見る事に。寝れない。明日も学校なのに。
こき使われて毎日毎日疲れ果ててた。
家事はしないと殴られた
勉強も出来ないと殺され掛けたこともある
私は自傷行為と摂食障害と失声症がでた。
ここから、限界で家出じゃダメならと学校でODした。ここでやっと児相介入。
精神科にかかることに。でも、主治医が親がダメ言うても親は改善しなかった。
私は何度も殺されかける。
私は何度も心を殺した。
限界な時は自傷行為やODに走った。
ODはいつも、学校だった。
私はいきていたらいけないんだろう、、
そう思っていた。
そんなことしていたらもう中学生3年生。
私は精神薬300錠飲んで死のうとした。
もう死にたい、楽になりたい。
そればかりかんがえて。
気がついたら7日経過してて、誤嚥性肺炎起こして入院していた。
死にたかったが、私は退院してそのまま精神科にぶち込まれた。
その後退院してしばらくして、父親が自殺しました。
後から知りましたが、児相とは深い関わりがありました。深い関わりがあったのは分かってます
私は自傷行為があるという理由で、病院から出れませんでした。でも、入院費はいつも心配でした
でも、私は入所形式で入院していました。
親は一切お金かからない。
親は私が18になるまで遺族年金を私の分まで貰える。私には一切お小遣いすらありませんでした。
私は、ある方に助けてもらい、虐待児から、虐待サバイバーになりましたが。
被虐待者で解放されて、楽になれたかと言うと、全然楽になれませんでした。
私は、解放されたあと母親も自殺しました。
中には羨ましいって思う人も居るかな。
でも、まだ私は親と同じ車を見ると怯え目で追う
体格や髪型が同じだとその場で倒れそうになる
私は、虐待してないって言葉しかきいてない。
家族って言葉を一言でも聞きたかった。
戸籍謄本には親の名前が生涯残る。
私はフラッシュバックにまだ苦しみ
自我を失わないように常に必死だ。
虐待の二次障害。
本人にしかわからない
二次障害も個人差があり、みんな違う。
被虐待者は恋愛にも苦労するだろう
被虐待者はDVを受けやすいし、その体質の人を寄せやすいのでかなり注意が必要だし
お試し行為をいつの間にかしてる為相手の理解がないときついのもある。
「私は産まれて、本当によかったのか?」
「私の存在価値なんて存在しないよ」
「産まれてこなきゃよかった」
「自分なんてあの時死ねば良かったんだ」
「誰も私の気持ちなんてわかるわけない」
自分も否定して生きてる。
頑張れば報われるものではない。
1度起きた事は取り返しがつかない
それが1番信頼しなきゃいけない家族だから。
それだけ、虐待は傷を残すんだよ。
でも、実際わかってもらえないんだよね。
私は自我を失う前の事を考えるしかないかな
最後は頭の整理になったけど、殴り書きななったけど、これで終わります。
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