私の日記帳 | ぐるぐるノート 〜 中庸、循環、直観、直感と凸と凹

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その奥の奥の向こう側へ、立体的に☆☆☆なんてことない思いつきをこのぐるぐるノートに書き留めておきます☆☆☆

近所にいまどき珍しく毎週魚屋さんが行商にくる。

今朝はそこのしょっぱい鮭と納豆、玄米そして味噌汁を頂いた。僕には十分過ぎる朝食だ。毎日食べられるごはんに感謝。もちろん作ってくれる人にも。以前は精米所に行ったり、精米機買って白米を頂いていたが、もうずいぶん前から我が家では玄米で頂いている。そのおかげかどうか、なんとなく毎日調子がいい、本当にありがたい。

この「なんとなく」という「気配、気」 人間は、というよりも僕はこれでいろいろな人、いろいろなところに及ぼしていることが分かった。


私の日記帳~ぐるぐるノート-この「私」というもの

「私、私と云って生きてきた。

 この私というものの正体は

  不明なものであった事を知らされた」



もし「私」が存在しているのなら、私というものを通して使ってください。私という箱、パイプ、経路を使っていただきたい、そう役に立ちたいと感じた。言うは易く行うは難しですが。本当なら、僕や私などは要らないのかもしれませんね。

実は妻は患っていて、西洋医学的には治らないものだそう。東洋医学からは勉強不足ゆえに分かりませんが。このことでいろいろなことがあり、「僕」や「私」があるからとても悩みましたし、お互い話し合いし、とにかくいろいろありましたし、これからも向かってゆくことでしょう。

なんとなくですが、治ると感じています。そのときは今、生きている環境、物質的なモノ、家庭環境、人間関係の気の乱れ、余分なものが整い落ち着きを見せる、究極的には肝が据わる、果ては達観できるようになると気がつけば治っているのではないかと感じています。
夫婦はもちろん、一人ではなく、二人でひとつです。実生活や精神面においても片方が置いてけぼりになってはいけないのですね。人生いろいろありますし、独身であることが時折隣の芝生のように見えることもありますが、この日記を残している「私」という人間、魂が磨かれるには、結婚、夫婦という形は必要だったのでしょう。もし、今でも独身であったら、今よりももっととんでもない輩だったことでしょう。

このとんでもない輩にまたどうしてか、親ばかと云われても仕方ありませんが、うちの子供は上が女の子、下が男の子で…やはり親を選んで子供は生まれてくるのでしょう。「私」は日々教えられている立場です。

これもみなさんがよく言われる「お試し」なのかも知れません。日々やってくる小さなお試し、俯瞰すると見えてくる大きなお試し、共に淡々と清々と過ごしたいものです。

余計なものを捨てると見えてくるものがあるのでしょう。

お読みいただきありがとうございました。

本当にありがとうございました。