誰かが失敗したとして、それをざまあみろと思うことはよくあるどころか、いつもである。というか、他人の不幸は蜜の味であり、まったくもって自分至上主義最高な時代は永遠に続いてほしいと思うばかりだ。では、そのような完全に自己中心的かつ、他人の失敗をあざ笑っていった場合どうなるのかについて、考えてみる。

おそらく結論は、幸せになるだろう。なんだ、そんなもんかと思うだろう。いや、当然だろうと思うだろうが、私的にはそれは全く不思議ではない。ものを上に投げたら下に落ちてくる現象よりも当然な事実として、焦点を合わせることすらしないかもしれない。しかし、何とも最初の文章で身構えてしまうのはなぜだろうか?

これはある程度において面白いことでもあるのだが、世間一般的に良しとされていることをあえて悪く演じて見せると、へそを曲げているような人間に見られることがある。または、共感力がたりなかったり、社会性に乏しく、ある程度おかしいやつなんだなというレッテルを張られる。しかし、それがどうかという話ではなく、そのあいまいなジャッジメント、もしくはこうであるべきだというべき論について、その琴線の部分で意見を変えまくっていく場合何が起きるのだろうかと思うことはないだろうか。

誘電分散という言葉があるが、ある程度グレーなところでなぜなのかという揺さぶりをかけると、それ以上は揺さぶられないポイントに行きつく。まるで電気双極子の誘電分散のように、一つに決まるのである。それは今までなぜ、という疑問を抱き続けた人々が試すべき、そして至るべきポイントであると思っており、そこで初めて、なぜという疑問がなんなのかについて悟ることができるのではないかと思っている。

頭ごなしに否定するのは快感であり、最高だ。そして、それについて待ったをかけるのはそれよりも頭が痛くなる。なぜかといえば、それについてカンガてみたらわかる。その事実しかないからだろう。

例えば、末路、という言葉は何か良からぬことに巻き込まれていった先にあるものとして、なんだかうだつの上がらない結末を連想させるが、なぜなんだろうか。また、なぜ、羨ましがり嫉妬して、他人の失敗をあざ笑うことがそのようにとらえられてしまっているのだろうか?

なぜに関しては、答えはわからないことが前提であり、それは疑問を持っている時点で答えがある。ということは、なぜ答えにたどり着けないのかという疑問もわいてくるだろう。

どういった結末がいいだろうか?