今日の哲学
娯楽にしろ快楽にしろ人間にしろ依存しなければ無限に楽しめる
ギターにしろ作曲にしろ依存すると楽しくなくなる。アイデンティティとして音楽をやりということは傷の処理みたいなもんで、楽しくはない。すっきり感があるだけだ。孤独も伴う。
おもちゃとして演奏すると倦怠が来ない。コントロールしてるような感じだ。周りの演奏者とバランスが取れるようになって、聞きやすいものとなる。はっきり言ってオーディオのバランスは関係ない。オーディオのバランスが良くてもプレイとして楽しくないものはつまらない。昔作った曲とかいくら音響変えても全部50点しか自分でも感じない。傷や寂しさを虚構化したものってどこまでいっても何だか不健康っていうかオタク的っていうか趣味的だなと思ってしまう。メロコアなんかその最たるもんで音楽だと思ったことはない。昔切羽つまってパンクロックを提案したら僕は音楽がやりたいんだと文句を言われたことがある。そのときから地元でパンクばかり聞かされていた音楽感がおかしくなり完全孤立状態になった。今でも細部にこだわる人しかプロにはなれないという確信があるけどこの際どうでもいい。
話を戻すと音楽としての純度が低いのかもしれない。ただ純度が高い物をやるのは訓練を伴うから一部の人しかにその効率と時間はない。
小説にしても趣味的なものが強いような気がする。言葉と情報と感情をコントロールして体現している作品なんか一部の人しか書かないから閉じ込められてる感があってそれが趣味的に感じる。趣味的な物だから読む人が共感して安心するっていうのもあるかな。ちなみに小説に依存したら新興宗教と同じことになる。だからハルキストとかいう言葉が出てくる。外部(他者)を消失すると同時に自分も喪失する危険な行為だ。恐らく村上春樹にしろ根を掘れば小説依存症だろう。言っていることが現実と解離している。女性は巫女として向こうから現れるって妄想的すぎてちょっと怖かったな。アニオタじゃないんだから… 北野武や太田光みたいなリアリストが噛みつくのも無理はない。
哲学は現実的にありえる感じがするだけはっきり言って小説よりタチがいい。リアルに生きていたい以上情報は必要だからだと思う。
ただ小説も依存しないでお惣菜を変えるように読むとどれも新鮮に感じて発見がある。現実と繋がる要素があれば趣味ではなく希望だ。
情報は希望へと変わり得るということだろう。
人間にしろ依存しなければ不快感は少なくなるし、良い部分が見えてくる。距離感が大切なのかな。依存には無理な期待があるということだろう。