聖書との出会い
私が逮捕拘禁された時、恥ずかしながら心は荒み、暴力的な言動が沢山あったことは間違いありません。
私が犯罪に手を染めるに至った元凶は全て、他人にあったと思い込み、その怨みは頂点に達していました。
その人に対して殺意さえ燃やしていたのです。
それは、告訴されてからも同じでした。
ことに、15年ともに生活してきた妻との別れがあり、その怒りは頂点に達していたのです。
拘置所の独居内では大声を上げ担当官に怒鳴りつけたり、壁を叩いてみたりしては、憂さを晴そうとしていたのが事実ですし、いま思えば恥ずかしいほどです。
考えてみると、当時私自身寂しかったのだろうと思います。
前記した人に殺意を抱き実行に移そうと、良くも悪くもそれまで築いて来たもの全てを捨てて来ていましたが、その寂しさを隠そうと必死だったのかも知れません。
ある日、長い間懇意にしていた友人に手紙を書きました。
手紙と言うよりも、自分が抱いた憤りをぶつけて、この怒りの捌け口を求めようとしたのです。
すると友人から、こともあろうに聖書が送られて来ました。
それをバカにするなとばかりに部屋の片隅に投げ捨てたのですが、求めていたのは宗教的なものでなく、人としての関わりだったのが本音です。
拘禁とは良く言ったもので身体は拘束されますが、時間と言うものは沢山有りすぎるものです。
いつも怒鳴ってばかりいる訳にも行きませんし、本来、読書好きな私は、投げ捨てた聖書を何気なく開きました。
何か期待があった訳ではありませんが、開いた瞬間、目にしたある文章に屑づけとなったのです。
「不当な憤りは弁解の余地はなく、理不尽な憤りは身の破滅を招く」シラ書 1章22節
これは正しく、いまの私に問われているものではないかと愕然となり、何か知らない力が聖書を読むようにと肩を押します。
私にはキリスト教というものが全く分かってはいませんでしたが、混沌とした私の心を救い出してくれるのではないかという、不思議な確信を得たのです。
その時から終日聖書に触れ、お祈りの時を過ごすようになりました。
と、いってもお祈りの仕方など分かるはずもなく、福音書に説かれている、「主の祈り」を唱えるだけです。
そして、ただただ自分の言葉で、悲しみや苦しみを神さまに打ち明け、「助けてください」「苦しいのです」と、お祈りの日々を重ねていきました。
刑務所 独居房にて