寿 栄 -鎮魂の歌

寿 栄 -鎮魂の歌

養護施設生活&矯正施設生活を総算すると人生の半分以上の割合を占める悪たれ人生を、最後の懲役となる約8年余りの服役生活のなかで、思い描いた文章をまとめています。

児童相談所に入所した当日、先生たちに連れられ、所内を連れ回され、色々な検査をされたのであるが、それが何であったのか、当時の私には理解出来なかった。

漸く、これから寝泊まりする棟に連れて行かれると、そこには男女合わせ20数名の子どもたちが物珍しそうに私を出迎えてくれた。

本来、人見知りの激しい私であったが、新入りの私に対して誰彼となく質問責めに合い、それに答えて行くうちに、打ち解けて行った。

しかし、何気ない話しをしている最中に、私の背丈よりも倍以上あろう上級生の高橋(仮名)が、(私自身が幼稚園児みたいな背丈であったので、本当の所は分からない。)私に向かい、

「お前、チョン(朝鮮人)の臭いがするばってんが、チョンか?!臭かけん、寄るな。」と、言われたのに、憤りを覚えた。

まるで父親が私に良く言っていた、「あいつら・・」と言う言葉と被って聞こえたのである。

私は反射的に身構え、睨んでいると、いきなり拳で殴つけられた。

幸か不幸か、父親からの虐待で殴られることには慣れている私には、全く恐怖は感じはせず、かと言って殴り返す勇気のない私は、何度殴られてもただ、ひたすら睨み続けていた。

数分くらい過ぎた頃だろう。

 

 

男の先生が来て分けて入ってくれ、引き離され、私に事情を聞こうとするが、なぜ殴られなければならないのか意味不明であり、それよりも、殴って来た相手に凄く憤りを感じていた。

「キサン(お前)が何回殴っても痛くなかばい。今度来たらやるけんね!」と、高橋に怒鳴り付けたのである。

「今度来たらやるけん。」 その言葉の意味が分かっていた訳ではない。

父親が、良く口にしていたことを言っただけなのだが、先生から注意を受け、「正座しちょけ!」と、板張りの廊下で正座させられた。

なぜ、正座させられるのかが全く分からず、「おかしな所ばい。」と、思っていると、若い女の先生が小走りに私の所へ来て座り込み、「あなたは何も悪くなかったんやね。みんなの所へ行って遊びなさい。」と、言われたのだが、益々、私の頭のなかは混乱した。

後から聞くと、他の児童から事情を聞いたというのだが、何で正座させられていたのかが分からずにいた。

 

 

昨年より、心身ともに疲れ果て、何とかブログの更新をと思っていたのですが、ついに病に伏して寝込んでしまいました。

自分自身のために、少し休養をとらせて頂きます。

折角、私の拙いブログを読んでくださっていたかたには大変恐縮ですが、また、更新出来る日が参りましたらお知らせします。

誠に申し訳ございません。

学校には、単に給食を食べに行くだけが目的で家に帰らず、近所の人たち(在日朝鮮人)の家で寝泊まりする日が続くようになった頃、父親から、

「あんな所に行くな。」「あんな奴らと遊ぶな。」

と、言われつつ暴力を加えられることが多くなった。

私にはその言葉が意味不明で、「とても親切な人たちなのになぜだろう。」

と、いう素朴な疑問が頭をよぎり、ますます父親に反抗心を抱くようになっていった。

 そんな在日の人たちのなかで、特に私を可愛がってくれる家族があった。

 その家族は、張本(仮名)さんと言い、私と同年代の、ゆみこちゃん、両親、おじいちゃん、おばあちゃんの5人家族だった。

ゆみこちゃんとの思い出は、余り思い浮かばないのであるが、おじいちゃんのカタコト混じりの日本語には、強烈なイメージとして浮かんで来る。

とにかく、日本人嫌いな人だったことは、言葉の端々に感じ取れていたのである。

「日本人さえ居なかったら。」が口癖で、片言の日本語に閉口しながらも、それを黙って聞いている私に、最後には、「将来は、ゆみこと一緒になって、家族になる。」と、言われるのであるが、その意味というものが理解出来ず、「分かったばい。」と言うと、家族全員で笑い合うのが常だったような気がする。

私といえば、張本さんの家に遊びに行けば、いつも笑顔で迎えてくれる張本さん家族が好きだった。

今、思えば、自分たちの食事さえもままならない状況下で、他人に食事を与えたり、泊まらせるというのは凄く負担だったろう。

しかし、当時のわたしは、その好意が凄く嬉しく、勧められるままに甘んじて受け入れていた。

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ある日のことである。

張本のお父さんに連れられ、何処か分からない大きな建物に連れられて行かれた。

玄関であろう入り口に、馬鹿でかい看板があり、それがやけに印象に残る所であり、看板には施設名が書かれていたのであろうが、私には全く読めなかった。

その日、そこで何をしたのかは覚えてはいないが、家に戻ると張本のお父さんが、それまでにない厳しい表情で、

「このままじゃいけんけん、仕方なかとばい。児童相談所に入った方が良か。」

と、言われ、私は妙に気持ちになり、その日に行った所が、児童相談所だということを悟った。

そして数日後、私は、児童相談所の職員に連れられて収容されたのである。

 

【追記】

 相談所に入所する前夜、張本のお父さんに呼ばれて家に行った。

それまで口にしたことのない韓国料理でもてなされ、帰り際、

「学校を卒業したら、絶対にウチに来るんばい。家族になるんじゃけんね。」

と、言ってくれたものの、私が学校を卒業して合いに行くと、すでに炭鉱は閉山していて、張本さん一家は行方知れずだった。