1月18日朝5時になんとなく目が覚めた。週末とあって昨日からしんいち君も来ていてかありと洋間で寝ているのでDKを通ってWCへいった。
WCは電気が灯いていて、扉を軽くノックするとかありの声がした。ゆっくり、しなよ』と床へ戻り、使用終了のフラッシュの音を待ってまどろんでいた。時計を見ると5時45分だった。
WCへ行くとかありが出るところだった。用を済ませて出ると、かありがもう一度WCへ入るという。痛みが15分開隔に来ているという。
予定日が1月15日で、12日の定期診察の際に、『難産になりそうだな。体が出産の準備をしていない。このままほっておけばまだ10日経っても赤ちゃんは出られないよ。促進剤を注射しよう』とこの日に静脈注射を1本打ち、16日に2本目をうったところだ。
冷えた体を床の中で暖めようと急いで戻ると、Hが『トイレなの?』と小声でいう。『かありが調子悪そうだよ。もう1時間ほどトイレにいるよ』と知らせて床に入った。
いつもと違ってなかなか寝付かれない。日曜日の早朝は12CHN囲碁の放送をしているのを思い出し、このまま起きてテレビを見ようと6畳の炬燵の部屋へいった。
かありが炬燵に足を入れ大きなお腹を抱えて苦しい様子だった。『痛むの?開隔は?』と訊くと『5分おき』と痛みを堪えた声で答える。『病院へ電話したのか』と訊くとまだだという。
『よし、病院へ行こう』と促して、すぐ着替えをした。Hにも声をかけ、起きるようにいった。かありはまたトイレに入り『ママ、ママ』と呼んでいる。
少し出血があったようだ。しんいち君も起きてきた。パジャマ姿なので『その恰好では寒いよ』と注意した。一緒に病院へ行くのなら、着替えをしなさいという意味でもあったが本人はカーデガンを羽織ったのみで、病院行きは我々に一任するつもりらしい。
6時に並木病院に向かった。診察をすると、『まだ、子宮口が、開いておりませんがお預かりします。』と入院はできた。
取り敢えず俺は帰宅してHが残った。『富士山の1合目です。まだまだですよ。』と看護婦さんにいわれ、Hも、家に居るしんいち君と俺の食事が気になったので、9時帰宅。
炬燵で少しうたた寝した。食事の準備をしてまた病院へ向かった。13:00、入れ違いに病院から電話が入り、『帝王切開をしますからすぐ来て下さい。』
病院では、Kのおなかの様子が急に発展したようだった。胎児の心音をモニターで観察して居ると、緊急を知らせる動きが2度あったという。急遽、帝王切開になり、当直の医師も駆け付けた。
Kは出産台の上で『けんたが死んだらどうしよう』と泣きながら、看護婦の指示通り酸素マスクを吸っていた。付き添う人もなく、心細い極みだったという。
Hが病院に着くと、Kは手術室に入るところだった。『ママ遅いよ』と恨み言をいいながら、Kは手術室に入った。Hは、Kに『頑張ってね』と声をかけるだけが精一杯だった。
後からこの経緯を聞いて、長男のまさやが俺たちを譴責した。『何が起こるか分からないのに、中座する付き添いとは…』。一言も無かった。
12:46、けんた産まれた。49.5cm,3,480g。母子ともに異常なし。
それからは毎日ガラス越しにけんたを見にいった。新生児室の赤ちゃんは、寝てばかり。皮膚も赤黒く、時々生きている証拠に口を動かす。とても可愛いとは言えぬ。
26曰、まだ雪の残っている道路を退院。今日から2世代生活。3月1日少し遅れたが、荻野神社へお宮参り。3月27日かありとけんた親子を川崎のアパートヘ送り込んだ。静かな年金生活に戻った。