お礼にひとりごと

お礼にひとりごと

ペットたちに救われたお話。

まずはじめに。

私の元へ来てくれたペットたちに、心からの感謝を込めて、これを残しておこうと思います。

 

私は犬と猫を飼っていましたが、二匹ともお空に逝ってしまい、もうこの世にはいません。

ですが、二匹が私に残してくれたものが、あまりにも大きな解放と気づきだったので、こうして文字に起こそうと思いました。

 

 

・🐕‍🦺・

 

 

私は人と関わることが好きではありますが、人と深く付き合うことは苦手な人間です。

 

表面上の付き合い、会話は簡単にできてしまうけれど、それ以上の関係はなかなか築けずにいました。

 

学校という学び場を通じて、本格的に他者や社会との関わりを経験し始めた頃の私は、特に自分のことが分からずにいました。

 

ゆえに孤独感が増し、自分自身を置き去りにしながら他者の期待、特に母親の期待に応えることが正解なのだという在り方を確立していきました。

 

幼少期の頃に両親は別居していて、小学校低学年までは、母が仕事で遅いときは母の友人宅に預けられていました。

 

学校帰りにはその友人宅へ向かい、友人家族と一緒に夕食もご馳走になっていました。

 

一人他人である私が混ざった食卓に違和感と孤独感を感じながらも、私のためにお仕事をがんばってくれている母の背中を見続けている私は我慢を選択する以外にありませんでした。

 

取り違えても、母親を憎いと思ったことはなく、子どもながらに母を思う当時の私が自分の感情を押し殺してまで「仕方のないこと」「わがままを言ってはいけない」という判断をしたに過ぎません。それに、母の友人である方にも、当時は大変よくしていただき感謝しかありません。

 

そんな生活を中学年に上がる頃まで続けた私は、母に犬がほしいとお願いしました。

 

母と訪れたペットショップで、ショーケースの中でたくさんの子犬が戯れて元気に遊び回っている中、一人端っこで外ばかりを眺めて大人しく座っているマルチーズがいました。

 

私は他の子に目もくれず、一目見て彼を指差し、「あの子がいい」と口にしていました。

 

 

私の孤独感を完全に払拭してくれたのが、プリンと名付けたその愛犬でした。

 

 

・🐈‍⬛・

 

 

私自身が人と深く付き合うことが苦手とする理由は、他者に対して必要以上に気を遣って疲れてしまうからです。

 

気遣いという体の裏に、「嫌われたくない」「独りになりたくない」「捨てられたくない」「見放されたくない」という思いがありました。

 

私は当時から築き上げてきた、誰かの期待に応える自分であり続けていました。

 

自分以外の誰かのために自分の時間を削り、気を削り、自分へ向けられた期待と要求に応えた対価として受け取る感謝の気持ちと言葉、その成果によって私自身の価値を測ってきました。

 

誰かに必要とされていなければ、自分の存在意義を見出せずにいたのです。

 

人は何もできなければ価値はない、価値がなければ捨てられる、そうなれば可哀想だと思い込んでいました。

 

さらには大人になるにつれて、父と別居した母の姿を見ては、そんなふうに母親を見下してさえいました。

 

なぜなら私は、父親と過ごした幼少期の記憶が断片でしか存在せず、別居した当時の記憶がバッサリと切り取られたかのようにありません。気づいたら母と二人暮らしをしている生活環境でした。

 

こうした家庭環境、親子関係を通じて、私自身が自分に「可哀想」だというレッテルを貼り付けていることにも気づかないまま、一匹の子猫が私の元へ来ました。

 

家の近くの空き地に段ボールに入った状態で捨てられていた子を、母が連れて帰ってきました。

 

 

「私は可哀想」だというレッテルを完全に払拭してくれたのが、茶づけと名付けたその愛猫でした。

 

 

 

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