父親が亡くなると、
悲しむ間もないくらいに、
慌ただしく時間が過ぎていった。
まず、葬儀屋さんを何処にするか?
喪主はどうするか?
父親の知り合いはどのくらいいるのか?
誰を呼ぶか?
父親の自宅の片付けは、どーするか?
など、
考えて決めなければいけないことが、
山積だった。
このときのわたしはまだ30代で、
今までこういった経験はなかったので、
とにかくよく分からないし、
ひとことで言うなら若輩もので、
ことごとく要領を得ないのだ。
葬儀屋さんだけは、
ここ!と、決めた。
喪主は本来なら母親だが、
このとき母親は入院をしていたので、
少し頼りなくて心配だったのだが、
彼(夫)とわたしがフォローするということで、
兄になってもらうことにした。
お葬式の会場も、
父親の自宅のある入間には、
誰も身寄りが居ないため、
父親が最期のときに身を寄せた、
我が家の近くの斎場に決まった。
斎場が決まると、
葬儀屋さんに、
斎場と火葬場が空いている日にちを確認して、
菩提寺のご住職に電話をして、
日取りと日時を決めた。
祭壇の写真は、
父親が最期の春、
わたしの家族と一緒にお花見に行ったとき、
とてもいい表情をしてくれた、
写真を使うことにした。
このとき一番困ったのは、
父親の交友関係である。
父親が誰と交流があったのか、
まるでわからなかったのだ。
父親の会社関係の人といっても、
享年67歳。
昔は55歳が定年だったので、
会社を定年退職して、
それから誰と交流があったのか、
てんでわからなかったのである。
そこで、遺品の手帳を見てみた。
手帳のアドレスを見て、
片っ端からとはいかなかったが、
この人は?と思う人に、
失礼とは思いながらも、
電話を掛けてみることにした。
しかし、実際に電話を掛けてみると、
父親が亡くなったことを話しても、
そこまで反応する人は、居なかった。
なので最後はよくわからないので、
親戚だけでいいという話しになった。
父親のほうの親戚は、少ない。
主に親戚は、叔母夫婦と従兄弟だ。
この少人数に対して、
母親の実家がある茨城の親戚は、
7人兄弟と家族である。
わたしは兄に言って、
手分けをしながら、
早速電話で出席の有無の手配をすることにした。
すると最終的には、
父親の妹夫婦と子ども。
父親の叔母と従兄弟。
わたしの義両親と義妹。
母親の兄弟夫婦は、
宿泊先を決めて、
全員連日出席ということになった。
受付は、義妹と従兄弟がしてくれた。
お通夜には、父親の知り合いは、
結局最後まで誰も分からず来なかったが、
兄の会社の役員の人が、
遠方はるばる茨城から来てくれたり、
日頃からお付き合いのある、
彼(夫)の会社の人達が来てくれた。
わたしはわたしで、
忙しさで自分の友人に連絡するのを忘れていて、
慌てて連絡すると、
急で行けないからと弔電を打ってくれた。
葬儀では皆、
父親のために手を合わせてくれて、
感謝の気持ちでいっぱいになった。
次の日の告別式が終わったあと、
外に出てホッとしていると、
母親方の親戚のひとりの叔母さんが、
わたしのほうに近づいて来た。
叔母さん、
この度は遠いところありがとうございました。
と言って、頭を下げると、
信じられないような言葉が返って来た。
「お前の父親もお前も、ばあちゃん死んだとき来なかったな」
と、言ったのである。
ばあちゃんとは、うちの母親の母親のことだ。
母親方のわたしの祖母である。
祖母といっても、
わたしにはほとんど記憶がない。
それは父親が、
生前から母親方の親戚とは折り合いが悪く、
行きたがらなかったからだ。
要するに、この叔母は、
お前の父親は葬式にも来なかったのに、
うちは来てやった。
と、言いたいのである。
わたしは、愕然とした。
そもそもわたしは、
母親方の祖母が亡くなったのさえ、
知らなかったのだ。
話しを聞くと、
ちょうど祖母が亡くなった時期は、
わたしが彼の転勤で福岡に居たときと重なる。
父親本人はもう亡くなって居ないというのに、
父親が生前働いた不義理のせいで、
その娘であるわたしにトバッチリが来たのだ。
なんてことだ!
と、思った。
死んでも悪口言われるなんて…
サイテーじゃん!
しかし…
人が亡くなったときに、
そんなこと人に言う?
言うほうも、どーなのよ?
って、思った。
(父親とわたしは、別物だ)
(その子どもに罪はないはずだ)
(おかしいよ)
(あー、いい迷惑だよ)
と、思いながら、
わたしは、その場を収めるため、
叔母に謝った。
お父さんもう居ないから…
わたしが代わりに謝ります。
不義理なことして、ごめんなさい。
それから…
わたし、おばあちゃん亡くなったの知らない。
その頃転勤で、九州にいたの。
だから、知らなかった。
今度お墓参りに行きます。
と、伝えると、
プイっと、行ってしまった。
(お父さん、茨城の親戚どーすんのよ)
と、思いながら、
わたしはこれから先に起こることを案じていた。
茨城には兄がいて、お世話になっている。
たぶん母親も退院したら、
向こうに住むであろう。
(わたしに父親の代わりが出来るだろうか…)
(わたしは不義理な人間ではないと、あの人たちにわかってもらえるだろうか…)
(とにかく行くしかないよね)
(誠意だよね)
と、波乱を予想する未来に、
わたしはこの日覚悟を決めた。
Keiko
つづく
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