前回、

後にわたしがこの仕事をするきっかけとなった、

原点の話しをしたが、

ここで、話しを元に戻そう。

父親と母親が同じ病院に同時入院するという、

病院にとっても、

前代未聞な出来事から1週間が経ったある日、

病院から呼び出しがあった。

病院からは、

唐突にも、

母親をこの病院には置いておけない。

と、言われてしまった。

理由は、

母親は精神疾患がある患者なので、

もしなにかあったときは、

他の患者さんに危害が加わるかもしれないので、

出て行って欲しい。

と、いうことだった。

ごもっともな話しだ。

なんとなく予想はしていたものの、

しかし、

わたしにとってこれは、

かなりショックなことで、

頭が真っ白になってしまった。

もしこのまま、

ふたり同時入院なら、

看るのもなんとかやっていけると、

踏んでいたからだ。

母親が病院を出るということは、

同時に母親を家で看ることになり、

それはわたしにとって、困難を極める。

なにが無理かというと、

まずは、わたしのメンタル的に無理なのだ。

母親は、幼少からのわたしに対する虐待があった。

その母親を看るということは、

わたし自身が不安定になることが、

はじめからわかっていた。

これは、

ごく普通の一般家庭に育った人には、

恐らく分からないことだと思う。

これには、

アダルトチルドレンにしか、

分からないことがあるのだ。

虐待をした親をその子どもが看るということは、

親を看ている過程で、

必ず、フラッシュバックが起きる。

このとき、頭の中では理性が働き、

親を看ようとする自分がいる一方で、

フラッシュバックが起きた脳では、

混乱を来たし、葛藤が生まれる。

すると、

親を看れないなんて、

自分は一体なんて冷たい人間なんだろう?

と、思い煩い、自分を責めることになる。

その事が、自分のこころを攻撃する。

ひとつトラウマがあれば、

人は、いつ何時でも、

こころを病んでしまう生き物だ。

それが人間なんだと思う。

だから、

こうした一連の流れが目に見えた場合は、

自分に無理をしないことが、

得策であり賢明だ。

要は、自分を守るということだ。

わたしの場合、

もちろんそれだけではなかった。

自分の生活はどうなる?

もし母親が暴れたら、

小さい娘のこころにも傷がつき、

わたしの家族との生活をも脅かすことになる。

余命宣告をされてしまった、

父親ひとりの重みとは、

また全く別の意味での重みが、

このとき、ずしっと、のしかかって来た。

兄は遠く離れた場所にいるし、

とてもではないが、

親をふたり同時に看ることは、

これらの理由により、

わたしには、最初から無理があった。

そうはいっても、

精神疾患のある患者は、

症状が出ていないときは、

入院は出来ない。

入院して症状が落ち着くと、

病院を出て、

家では家族が服薬の管理をしながら、

看るのが、通常なのだ。

そこでわたしは、

まずこの病院に在籍するソーシャルワーカーに、

相談することにした。

兄にも急遽連絡をして呼び寄せた。

兄はこのとき茨城に居たので、

母親が一時入院出来る病院また施設があるか、

聞いてみてもらうことにした。

もし受け入れてくれる病院があるならば、

兄は母親を、

わたしは父親をと、

振り分けて看ることを考えたのだ。

結果は、

ひとつだけ受け入れてくれる病院があった。

兄とわたしは、

茨城にある病院に母親を移すため、

早速手続きを進めてもらった。

病院には、茨城の病院に移る日まで、

どうかそれまで母親を入院させて欲しいと、

懇願した。

これには、

病院もさぞかし迷惑だったろうが、

しぶしぶ、承知してくれた。

父親には、

お母さんね、この病院に入院無理だから、

茨城の病院に移るね。

と、言うと、

「わかった」

とだけ、返事をして、頷いた。

それから、母親が転院する日がやって来た。

兄ひとりでは心もとないので、

兄のクルマにわたしも同乗して、

母親を乗せると、

長い道のりを走った。

Keiko 

つづく