まだコロナが猛威を振るう前に、
息子が小学校に入学するにあたり
太宰府天満宮、
宝満山の山麓にある「竈門神社」に参拝をいたしました。
福岡県人で学業の神様と言ったら太宰府天満宮ですから!
太宰府天満宮と幕末については
当ブログでも紹介させていただきました。
今回は、
「竈門神社」にフォーカスを当てたいと思います。
私もまさか竈門神社に
幕末ではありませんが、
明治9年に起こった「神風連の乱」に関する史跡が
あるとはノーマークでした。
あるとも知らず、
境内をブラブラしていたら
「神風連」の文字が!
私の幕末アンテナがピピピ!!
「神風連 立嶋駿太烈士之碑」
明治9年の変 100祭奉賛の会
昭和51年建立
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私の手元の資料には、
「立嶋駿太」という名前は確認できなかったのですが、
熊本県熊本市中央区黒髪にある神風連資料館にて
神風連の乱の名簿に
「立島駿太」という名で記載がありました。
『立島駿太 34歳 宝満山にて死亡』
「島」こそ違いますが、
この方で間違い無いと思います。
ただ、
リーダー格ではなかったようでそれ以上の
情報はありませんでしたが、
調べていくうちに以下のことが分かりました。
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神風連の乱(10月24日)の一連の行動の後、
熊本から逃れ、
神風連の報に接した秋月士族の挙兵(10月26日)に合流しようと
秋月に向かうが、
時すでに遅し。
すでに鎮圧された後でした。
よって、立嶋氏は
秋月の先にある宝満山に向かい、
宝満山にこもって断食をし、
祝詞をあげたりして日を過ごしていましたが
力尽き亡くなったとのことです。
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碑についてのご報告は以上ですが、
気になるのがその建立者です。
元福岡市長 進藤一馬
彼の経歴が面白いのです。
進藤一馬のお父上は、
旧福岡藩士・進藤喜平太といい
アジア主義を抱く政治団体玄洋社創設者の1人であり、
一馬自身も市長になるまでは玄洋社の社長を務めていました。
ここからは、
資料・情報がなくあくまでも私見になりますがご勘弁下さい。
建立時期は
一馬にとりちょうど福岡市長時代にあたります。
福岡藩の明治9,10年の動きを見ると
佐賀、神風連、秋月の乱に同調せずにあくまでも
西郷隆盛の決起を待ちづつけた(福岡の変)歴史があります。
3つの乱に同調せずとも、
旧士族が新政府に対する不満を持っていたのは同じであったわけで
一馬は太宰府に神風連に参加し、
後に亡くなった立嶋氏を無名のまま見捨てておけず、
碑にも『烈士』としたのではないかと推測します。
あくまでも、
私の浅い私見ですが。
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以上が、
宝満山山麓にある竈門神社境内にある
「神風連 立嶋駿太烈士之碑」
の碑についてでした。
新政府軍により鎮圧された神風連の乱のメンバーは、
熊本市内に散り自害したり、
立嶋氏のように秋月に走ったとも言われています。
熊本市内で集団自決した場所には碑が建立されているようですが、
立嶋氏のように秋月に合流しようとしたが叶わず、
たまたまなのか向かった宝満山にて死去した立嶋氏の碑が建立されているのは
私は大変貴重な史跡であると思います。
福岡県太宰府市で亡くなった、
福岡には由縁もない肥後人・立嶋氏の1つの死を歴史に埋もれさせることなく、
碑を建てこうやって後世に伝えて下さった進藤一馬元福岡市長には感謝です。
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久しぶりに、
私も埋もれかかっていた歴史・碑を
掘り起こすことができ、
大変 嬉しい所存です。
この嬉しさがあるので
史跡巡りはやはりやめることができませんね!
《参考文献》
・学研『幕末戊辰西南戦争』2006
・神風連資料館にて購入した冊子
《取材先》
・竈門神社
・神風連資料館
・太宰府市役所
・福岡市市役所