前回は、
宮崎兄弟の生き方に影響を及ぼした
その父・長蔵について述べました。

今回は、
養子ではありますが
長男にあたる人物を取り上げたいと思います。


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長蔵の長男・武平は
嘉永3年に生まれ4年に夭折しました。

そこで、
自分の子供には自由奔放に生涯を貫かせるためか、
又はその子の器量にほれたか、
どちらにせよ「高木元右衛門」という人物を
宮崎家の相続人に立てています。

山門一門の剣術仲間の高木甚之助がいて
その息子を養子にもらいました。


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高木元右衛門は、
天保4年(1833)高木豊次の次男として
肥後菊池郡深川(現熊本県菊池市深川)に
生まれました。

元右衛門は、
幼少の頃から武芸に励み、
剣術、槍術、居合いを極め、
家業の笛の技を守り、
その名声は肥後藩中に響きわたっていました。

高木元右衛門は、
肥後勤王党の総帥にあたる宮部鼎蔵に私淑し、
勤皇思想と兵学を学び、
勤皇の志士へと生まれ変わっていきました。

その第一歩が
文久3年(1863)に肥後藩の禁警備に従って上洛し、
翌年には肥後藩選出の親兵として抜擢されました。

そして、
「8月19日の政変」で、
三条実美らが都落ちする七卿を護衛するため、
高木元右衛門はあえて脱藩して長州へと走りました。

三条実美の密偵として
京の政情を探索活動に没入しました。


高木元右衛門の名を有名にならしめたのは、
元治元年(1864)、
近藤勇が率いる新撰組が勤皇派を襲撃した
「池田屋事件」であり、
同年の「禁門の変」です。


この池田屋襲撃で、
首領格の肥後藩出身の宮部鼎蔵が自害、
松田重助は斬殺、
高木元右衛門だけが新撰組組長の近藤勇と切り結び、
新撰組の包囲網を突破しました。

その翌日、
近藤勇は近親者への手紙で
「今夜の敵多勢と申しながら
執れも万夫の勇士、
誠に危なき命を助かり申し候」
と告白しています。
近藤勇を油断に追い込んだのは、
まぎれもなくこの高木元右衛門でありました。

「禁門の変」では、
会津、薩摩の圧倒的な軍勢を前に、
元右衛門は最初から死を覚悟したかのように、
先鋒として禁門に突入、
抜刀を振りかざして壮絶な最後をとげました。



お墓は、
肥後勤王党と神風連の皆々が眠る
熊本県の桜山神社にあります。



桜山神社に最後に訪れたのは10年前で、
その際は、高木さんのことを知らなかったので、
高木さん個別の墓石の写真を撮っていませんでした。


高木家(現菊池市)では、
禁門の変のときの血痕のついた元右衛門の認証票(布製)
が保存されています。


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長蔵の宮崎兄弟らと直接的な交流は
余りみられませんが、
熱血的な志を持ち走る姿は
本当の兄弟のようにみえます。


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次回は、
宮崎兄弟と言ったら
この恋多き女性も忘れてはなりません。
「柳原白蓮」さんを取り上げたいと思います。

「花子とアン」、朝ドラは昨年になりますかね?
朝ドラの蓮さま効果で、
蓮さま目当ての来館者も多かったという
宮崎兄弟資料館です。


《参考文献》
・荒尾市宮崎兄弟資料館にて頂いた
出典未確認のコピー
東海大学名誉教授 高宋 昭敏教授 の書いた資料です。