長らくお付き合い頂きました 「団琢磨」シリーズ
も最期を迎えます。

世に言う『血盟団事件』です。

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1929(昭和4)年秋に、
ニューヨークのウォール街で起こった
株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌は、
その翌年には日本経済を直撃して、
のちに昭和恐慌といわれた大不況になりました。

これに東北地方や北海道の凶作、飢餓が加わり、
世情は騒然となりました。

生活難と失業者の増加を背景として労働争議が多発し、
かつ激化して行き、農村でも農作物価格の下落に加えて、
米国への生糸価格が暴落して、
当時農家の4割を占めていた養蚕農家は大打撃を受けて、
多くの農村が疲弊し、
娘の身売りや学校に弁当を持ってこない児童などが
大きな社会問題となるような悲惨な状況になり、
小作争議も各地で多発しました。

このような状況の下で、
一方では軍部の擡頭があり、
他方では、極左、極右両勢力の活動が盛んになり、
その攻撃の目は、
彼等から見て腐敗した政党関係者や財閥、資本家、
その他のいわゆる特権階級に向けられて、
テロが事件が多発するようになりました。

また、北一輝大川周明らに思想的な影響を受け、
扇動された青年将校達が 「昭和維新」を
唱えて革命のために決起しようとする動きも出てきて、
これがのちに五・一五事件とニ・ニ六事件とにつながっていったのでした。

このように異常で混乱した世相を背景として、
茨城県大洗町の東光山護国堂の日蓮宗行者 井上日召
を首領とする要人暗殺集団ともいうべき血盟団が結成されたのです。
 
この集団は当初は、 井上の門下で
主として茨城県出身の20数名の青年達で 構成されましたが、
のちに北一輝や大川周明などから思想的な影響を受けて
「昭和維新」を唱える陸海軍の青年将校や民間人、大学生などが
合流して40数名になりました。

青年将校の中心人物は、
海軍は藤井斉中尉、
陸軍は菅波三郎中尉などで、
彼等かの中には五・一五事件とニ・ニ六事件の首謀者達が含まれています。

井上は、自分達民間人が「一人一殺主義」の下で、
「国家改造運動促進の機運を醸成するために、
政党、財閥及び特権階級の巨頭の暗殺を決行して、
革新運動の狼煙を上げる」ので、
青年将校達にはその後に決起することを求めて、
まず自分達一党が行動を起こすことを決定したのであります。

このとき井上に凶器のピストルを
手渡したのは霞ヶ浦航空隊所属の海軍は将校藤井斉で、
藤井はそのピストルを大連で手に入れ、
海軍の飛行機で持ち帰って来て、
それを井上に渡しました。

井上日召が計画した要人暗殺計画のターゲットは、
政治家では、
政友会の犬養毅首相、
鈴木喜三郎、
民政党総裁の若槻礼次郎、前蔵相井上準之助、
前外相幣原喜重郎など、
財界では、
三井の団琢磨、池田成彬、
三菱の岩崎小弥太など、
その他特権階級として西園寺公望、牧野伸顕、徳川家達などが挙げられており、
一人一殺主義の下で、それぞれの要人別に暗殺実行者が配置されていました。

その中で、首領の井上日召から団琢磨の暗殺を指名されたのは、
茨城県生まれで、血盟団幹部の菱沼五郎でした。

このころ、
政界、財界、の巨頭などの暗殺計画が
密かに進められているという風説が流れて、
一部には自分が狙われているのではないかと恐れて、
外出時に防弾チョッキを着用して用心する人達もいました。

大正後期から昭和初期にかけての労働組合法の制定をめぐる動きの中で、
琢磨は郷誠之助などとともに、
経済界の代表として同法案に反対の立場を鮮明にして、
その成立を阻止するために積極的に活動したために、
左翼勢力や労働団体から「団を斃せ」、「郷を斃せ」
という過激なビラを撒かれたりして、
激しく攻撃されていました。

そのことから琢磨は、自分は極左勢力から狙われていて、
あるいは生命におよぶ危険もあるということは自覚はしていたが、
その身近について安全対策を講じるようにという周囲の人達の忠告には
従おうとはしませんでした。

他方、三井内部でも、
血盟団という具体的な暗殺集団は掴んではいなかったものの、
一部の軍人と結託し、軍人から武器を提供された極右のグループから
首脳部が狙われているらしいという情報を得て、
団琢磨、池田成彬らの指導者達について警戒体制を敷くことにしました。

琢磨は身近の特別の警備や外出時の防弾チョッキの着用を受け入れず、
三井本館への出入りの際にも
「社員専用の通用門を利用するように」という
周囲の忠告にも従わず、平常通り、
一般客の出入りが多いために警護が困難とされる正面玄関を利用しました。



1932(昭和7)年2月9日、
前蔵相の井上準之助が、
本郷の小学校で催された選挙演説会に赴く途中、
血盟団幹部の小沼正にピストルで撃たれて死亡しました。

この事件の直後、
逮捕された犯人の小沼は、
警察の取り調べに対して
「 別に背後関係は何もない。
農村の疲弊と失業者の増大は、
前蔵相の井上の責任だと考えて殺った」といったので、
この時点では組織的な犯罪とは見なされず、
血盟団の存在も明らかにはなりませんでした。

しかし、この凶変があり、
周囲の人達は、琢磨に対して、
身近の警戒をいっそう強く求め、
中にはしばらく満州に旅行することを薦める向きもあったが、
琢磨は全く無頓着な態度で終始し、
三井本館への出入りもいつものように正面玄関を利用しました。

そのころ、
井上日召から団琢磨の暗殺者に指定されていた血盟団幹部の
菱沼五郎は暗殺実行のために上京して、
まず東京の地理を覚えるために円タクの助手となりました。

当時のタクシーには料金メーターがなく、
助手が同乗して、料金の交渉など乗客との対応にあたっていました。

さらに、菱沼は新聞や雑誌の写真を切り抜いて、
琢磨の顔を覚え、
日本橋の三越デパート横で客待ちをしながら、
三井本館の玄関を監視して、
琢磨の風体と乗用車のナンバーを確認した後、
円タクの助手を辞めて、
数日間、三越デパートの休憩室から
琢磨の行動を監視しながら、
暗殺決行の機会を窺っていました。



最期を迎える3月5日。
朝から来客があり、
話題が労働問題になったとき、
琢磨は、自らの運命を予告するかのように、
「私は労働問題で非常なる誤解を受けた。
これがため、あるいは斃れるかもしれぬが、
それは私もかねて覚悟している」
と語っています。

この日は、
午前10時から三井合名会社の理事会が
行われることになっていたため、
三井合名会社から再三出勤の催促の電話があり、
琢磨はようやく11時過ぎになって、
乗用車で三井本館へ向かった。

11時25分頃に、
乗用車が三井本館の三井銀行南側の表玄関に到着し、
琢磨が車から降りて、
表玄関の東寄りの石段を上って、
ドアから入ろうとしたときに、
待ち構えていた菱沼が、
琢磨に寄り添うようにしてピストルを
琢磨の右胸部に向けて発射した。

琢磨は発射と同時に「やったな」という一言を
発してその場に倒れました。

享年73歳でした。



犯人の菱沼五郎は、
その場で直ちに逮捕されたが、
警察の取り調べに対して、
「腐敗している既成政党政治を打開する目的でやった。
既成政党の背後には、大きな財閥の巨頭がついているから、
まずはその巨頭からやる計画を立てた。
いま財閥の中心は三井で、
三井の中心人物は団琢磨だから、最初に血祭りにあげた」
と自供しました。

しかし、井上準之助暗殺犯の小沼正と菱沼が同じ
茨城県出身であったことや、
凶器のピストルが同型のものであったというようなことなどから、
井上日召を首魁とする暗殺集団血盟団の存在が明るみに出て、
井上以下団員が一斉検挙されました。

ただ、このときの警察の操作では、
血盟団と青年将校達とのつながりが明らかになったものの、
青年将校達には何らの処置も取られられなかったことから、
彼等の暴走を止めることができず、
血盟団事件の流れは、
五・一五事件、更にはニ・ニ六事件へと進んで行ったのであります。


団琢磨がテロの凶弾に斃れたというニュースは、
世界各国の新聞などでも大きく報道され、
中には日本は暗殺の国だと批判する記事もありました。

特に琢磨の知己が多かった米国では、
多数の人が電報や電話で、
現地の三井銀行と三井物産の支店に弔意を表し、
モルガン商会のトーマス・ラモンなどは、
非常に憤慨して、
横浜正金銀行と三井銀行の支店長に、
電話で
「なぜああいう人を殺したのか」
と叱るような口調でいったということです。



団琢磨の死亡通知は、
「従四位勲一等工業博士男爵団琢磨儀
本月五日午前十一時四十五分死去
到候此段謹告仕候也、
昭和七年三月五日、男爵伊能、
親族総代子爵金子堅太郎、牧田環、
友人総代子爵栗野慎一郎、男爵益田孝」
という内容で発せられて、
併せて三井合名会社社長男爵三井八郎右衛門名で、
「三月八日午前九時三十分より十一時まで青山斎場において
社葬を執行する」
旨の発表がなされました。。


三月六日の夕刻に行われた納棺の際に、
梅若六郎親子あ告別の謡曲を謡って参列の人々の涙を誘いました。

三月八日の社葬には四千人を超える会葬者の列が
青山斎場から青山一丁目まで続きました。

この中には、
琢磨の暗殺犯人菱沼五郎の郷里からも代表者が参列して、
霊前で供物と弔辞を捧げて陳謝しました。

同日は、
菱沼の郷里である茨城県那珂群前渡村でも
団琢磨の追悼法会が行われました。


琢磨が、
かつての恩義に報いるために、
相談人、最高顧問として、
その家政に尽くして来た旧藩主黒田家でも、
「家政ニ参画シ、ソノ功労少ナカラズ」
として祭祠料を供えて、
生前の功労に意を表しました。


その後、
三井関係の店舗や事業場のある各地で、
団琢磨の追悼会が催されたが、
東京では、四月五日に、
日本工業倶楽部において、日本経済同盟会と日本工業倶楽部との
合同による追悼会が行われ、
この席上で三井鉱山株式会社が制作した琢磨を偲ぶ映画が映写され、
一同悲しみを新たにしました。



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幼年期に英語の初歩を学び、
岩倉欧米使節団の一員として渡米してからは、
学び得るものを貪欲に吸収し、
またそれを社会に還元する力を持った団琢磨。

明治維新後の日本の産業革命には、
欠かせなかった人物だと思いました。
 

長らく、団琢磨シリーズにお付き合い頂きまして
ありがとうございました。


 
〈引用・参考文献〉
・西村 健『光陰の刃』講談社、2016
・石井正則『武士道精神の産業人 団琢磨の生涯』文藝春秋、2011
・『大牟田市史 下巻』大牟田市史編集委員会、1968