前回は
「世界遺産・三池炭鉱関連遺産①「三池炭鉱についてと、明治政府の三池炭鉱への重要視具合」」がテーマでした。

今回は、「三池炭鉱と、発展に貢献した郷土人“団琢磨”」
でいこうかと思いましたが予定を変更 致します。

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“団琢磨” という人物をどれくらいの方々が
知っているでしょうか?

恩恵に預かった大牟田市の人、
さらに全国規模でみても。。。。??

私は大牟田人ですが、
恥ずかしながら三池炭鉱が世界遺産に
認定されるまでは、
郷土史料を漁っている際に拝見する「名前」程度でした。

しかし、
三池炭鉱が世界遺産となり、
調べて行くうちに団琢磨は避けては通れぬ道!

“郷土人”ではなく視野を拡大して、
明治政府、要人と関わった人、
明治4年(1871) 岩倉遣欧米使節団に加わった人、
と見て行くと興味深い人物に思えてきました。

こういう書き方ですと、
興味が無かったみたいですね。

白状します。

さほどありませんでした。


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私は経済史は得意ではないので、
今回は、
世界遺産・三池炭鉱関連遺産②「 団琢磨と明治政府との関わり」
をテーマにお伝えしたく思います。

団琢磨の岩倉使節団での他者との関わりを特にメインに
伝えることができればと。

団琢磨の「経済界のトップリーダー」、「財界の巨頭」
としての面は
他の方々が多く伝えているでしょうから、
私はあえて違う面から。

ただ、
1回の記事だけでは収まりきれないので、
数回に分けて書かせて頂きます。

今回は、「団琢磨の生い立ち」

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前置きが長くなり失礼を致しました。

今回もよろしくお願い致します。


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団琢磨は、
安政5年(1858)8月1日に、
筑前黒田家52万石の城下町に生まれました。

父は馬廻役200石の神屋宅之丞通可
母やすの4男の末っ子。
 
この安政5年は、
言わずもがな安政の大獄により
多くの有為な勤皇の志士たちが
処断された年でもあります。

当時の福岡藩主黒田長溥は、
第8代薩摩藩主島津重豪が67歳の時に
側室に生ませた子で、
14歳で黒田家の養子になり、
後に黒田藩藩主となりました。

「島津に馬鹿殿なし」といわれたように、
長溥も名君と評され、
藩政面でも積極的に西洋の科学技術を導入して
藩政の近代化を図るため、
西洋科学技術の研究施設として
精練所を設立して、
鉄砲や火薬などの研究・製造を進めたり、
外国から軍艦を購入したり、
鉱山開発を進めたりしました。
軍制も西洋式に改めようとしましたが、
保守的で頑迷な重臣達か
猛烈な反対を受け叶いませんでした。
やはり、他家からの養子の殿様として、
藩政の改革には
保守的な家臣達の抵抗などの
かなりの厚い壁があり思うように
行えなかったとされています。
 
長溥は勝海舟とも親交があり、
海舟は晩年、幕末期の諸侯の品定めが行われた時に
「1番の開明君主」として黒田長溥を挙げています。

また、
シーボルトとも親交があり、
「自分は若い頃、養父に連れられて、
長崎でシーボルト先生に面会したのが初めてで、
以後しばしば訪問して教えを受けた。
また実父が先生の診察を受けたこともあって、
浅からぬ因縁がある」
と語っています。

黒田長溥のお話が長くなってしまいました。

なぜ?と思われていると思います。

そのなぜは、
琢磨の父 ・ 宅之丞も蘭学の素養があり
そのことからも藩主長溥の信任が厚い家臣の一人であり、
常に近侍して長溥から機密の相談も受けたりしていて、
城からの退出時間も同僚たちより遅くなることが
多かったそうです。
 
また、宅之丞は非常に面倒見のいい人であったようで、
後に琢磨の英語の師になった
平賀義質も軽輩の家の生まれで、
幼くして父を失った貧困の暮らしの中から、
宅之丞の藩主長溥への推挙により
長崎に留学し、
その後、福岡藩からの
第1回海外留学生にも選ばれました。

平賀は恩義を忘れずに、
留学を終えて帰朝した後に神屋家を訪れて、
琢磨に海外事情を語って聞かせたりしました。

このころに琢磨が幼くしてこの平賀から
英語を学んだことも
後になって海外留学に繋がってくるのです。

琢磨の父も蘭学に通じ、
藩主の信頼も厚かったことが
琢磨自身の将来を左右したことでしょう。

そんな琢磨にも養子の話がきます。
明治3年(1970)
跡継ぎが育たなかった團家から 
琢磨に養子縁組の申し入れがありました。

当時の團家の当主・尚静は
福岡県権大参事の重職にあった。

この團家からの養子の申し入れに対して、
神屋家では、
團家が福岡藩では600石で家格が違うことに加えて
琢磨が幼い時から漬物が嫌いで全く口にしないために
養子に行ってもすぐに追い返えされるのではないか
というような心配などから一旦は辞退しました。

これに対して、
團家では、尚静の母がたびたび神屋家を訪れて懇請したので、
神屋家でも無下に断ることができなくなり、
当の琢磨自身もあながち拒絶の姿勢を示さなかったので、
琢磨が12歳の時に團家の人間となりました。

琢磨を迎えた團家では、
一家を挙げて琢磨の機嫌をとり、
漬物などは一切食膳に出さず、
好物の焼味噌を出したりして、
幼な心を養家に引き付けるために、
こまやかな心遣いで大切に扱ったということです。


明治4年、
養父の上京に従い
霞が関にあった黒田屋敷内の團家に入りました。

まもなく、
尚静は、琢磨を平賀義質の英語塾に入れることにしたので、
琢磨は平賀塾に住み込んで、
本格的に英語を学ぶことになりました。

琢磨は平賀塾では、
階下の一部屋に、同じく門下生の
金子堅太郎とともに住み、
ともに熱心に英語を学んでおり、
後に当時を思い出して次のように語っています。

「私ども2人(金子と團)は下の部屋でスペシャルの待遇である。
年取った者が大勢(学びに)きたけれども、
(彼等は英語は)何も知らぬ。
学問の方ではこっちが上なんだ。
(私どもは)見本(皆の模範)にされる方で、
そこで大いに勉強していた。」

また、
金子はこのころの琢磨との出会いについて
次のように語っています。


「霞が関の(福岡)藩邸に、
團の親夫婦が女中や家来を連れて、
琢磨が若様で来た。
私も藩の書生であったから、一度会いに行った。

私が初めて(團)に会ったときは、
大きな部屋に、お母さんが紫縮緬の座布団に座っておられ、
そのそばに團が若様で羽織を着て座っておった。

『これが私の倅だ』といって引き合わされた。

そこで時々、團の屋敷に行くと、
團が『歯が痛む』と言って七転八倒している。
(團が)『頭が痛い』といっていると、
皆が撫でさすりしている。
本当に『大参事の若様なんて、こんな贅沢なことをしている』
と思った。

そのうち、
尚静が『ここに置いて出すことはいかん(屋敷に住まわせて通学させる訳にはいかない)
から、平賀先生の所に預ける』といって
(團を平賀の所に)預けた。」

このときの琢磨は、
平賀にとっては恩人神屋宅之丞の子供であり、
更に藩の高官である團家から
預かった弟子という立場である。
 
一方、金子は平賀の学僕の立場で、
平賀が司法省に出仕する際には弁当持ちでお供しており、
身分にかなりの差があったようであるが、
お互いに仲良く勉学に励んでいた所に、
思いがけず海外留学の話が持ち上がったのでした。


琢磨は、
実父から与えられた恵まれた環境で育ち、
琢磨自身も聡明な青年であっただろうから
格が違う團家からの懇願にも似た養子縁組の話が来たのでしょう。
 

・・・・・・・・・
 
琢磨の生い立ちは、
その後の琢磨の人生を左右する所が多いので
長々とエピソードをそえながら取り上げました。

次回は、
「岩倉欧米視察団、米国への留学」をテーマに
お話したいと思います。


長らくのご静見(造語・読み方不明)、
まことにありがとうございました。
 
 
〈引用・参考文献〉
・石井正則『武士精神の産業人 団琢磨の生涯』文藝春秋、2011
・『大牟田市史 下巻』大牟田市史編集委員会、1968