『月が出た出た月が出た
三池炭鉱の上に出た』
と歌われる炭坑節の街として、
明治以来日本の経済を支えてきた大牟田市。
福岡県の最南端に位置する市。
藩でいうと三池藩。

炭鉱が栄え1959年(昭和34年)には
最大人口が約20万人(市面積81.45㎢)を誇りましたが、

1997年(平成9年)に閉山してからは
人口流失が著しくなり
2015年(平成27年)9月現在では約12万人。
前月から-約100人。
人口流出が止まりません。

経済難も続き「第2の夕張」やらイメージは悪い市。

しかし!!
そんな市にも、吉報が!!

三池炭鉱関連遺産が
2015年7月5日 世界遺産へと
登録が決定されたのです!!!

さぁ、
今まで観光事業に力を入れていなかった
市はてんやわんや。

・・・・・・・

私はこの場にて、
・三池炭鉱についてと、明治政府の三池炭鉱への重要視具合
・三井三池炭鉱と、発展に貢献した郷土人 “団 琢磨”
・世界遺産決定から約3ヶ月が過ぎた現状のレポート
を順をおってお届けしたいと思います。

お付き合いの程をよろしくお願い致します。

・・・・・・・

まず第1回目の今回は
「三池炭鉱についてと、
明治政府の三池炭鉱への重要視具合」
をテーマに挙げます。

この三池と呼ばれる地にて
石炭が発見されたのは、
文明元年(1469年)、応仁の乱 直後の頃です。

藩主の命により石炭問屋が
安政6年(1854年)に作成した
調査報告書『安政六年末六月、石炭山由来』に
そのことが分かる一文があります。

「筑後国三池郡石炭の由来」とあり、
「抑も石炭の元祖者、文明元年丑正月十五日、
三池郡稲荷村の農夫伝治左衛門と申す夫婦の者あり」
と書き始められています。

この石炭の需要は、
はじめは風呂の燃料、
「登治」としてのコークスにして
炊事・暖房用の燃料として使用されていましたが、

次第に醸造・鍛治・窯業・瓦焼・白炭焼などの
家内工業用の燃料としての需要がはじまり、
商品生産としての石炭産業の発展が
みられるようになりました。

特に瀬戸内地方での製塩業の発展は、
石炭産業の確率に大きく貢献しました。

では、だれが経営していたのか?
明確な記録がある18世紀の頃

これがややこしいんです。

なんせ、
・三池藩
・柳川藩にまたいで存在していました。

まず、三池藩の方は、
数名で経営に着手していましたが、
藩に没収されてしまいました。
ですが、藩も直接 経営するのではなく
“請負制”を用いました。
「石山御用掛」の管理下に石炭採掘および
石炭運搬、船積み、移出が請負制でやらされていました
有力な請元としては塚本家、藤本伝吾等が挙げれます。

しかし、三池藩は1802年(文化2年)に、
奥州下手渡に転封になりました。

それまでの三池藩営炭山は請負制による経営で
あったわけですが、
そのいち請負師であった藤本伝吾は
ライバル塚本家をしめ出して、
石炭掘権を独占しました。

ですが、
いつまでも甘い汁を吸える訳ではありません。
1851年(嘉永4年)に復封され、
炭山も三池藩管理による請負制に復されていきました。
この時、先代藤本伝吾のあとをひきついて
炭山の独占経営をやっていた藤本伝吾は
その経営から追放されることとなりました。
その後は、藩士に下げ渡され幕末、明治を迎えました。

一方の、
柳川領の炭山は柳川藩家老 小野家が
官営になる明治6年まで経営していました。

幕末の動乱期が過ぎ、世は明治。

1871年に廃藩置県となり、
久留米藩領を県域とする久留米県、
柳川藩領を県域とする柳川県、
三池藩領を県域とする三池県が誕生することになりました。

そして、この年の11月には、
筑後地方の3県が合併して「三潴県」となりました。


なぜここで「三潴県」の話を出したかといいますと、
炭山の経営も合併したわけです。

富はみんなが欲しい

旧三池藩藩士と旧柳川藩家老小野家の
間で利権争いが起こりました。

そこで、三潴県が、
県としこの利権争いを解決するべく
国、明治政府に相談を持ちかけました。  

結果として
1873年(明治6年)に官営化されました。


だが、この時点では、明治政府は、
三池炭鉱の石炭算出の見込みはないと判断し
渋々運営にあたっていました。

その理由の1つに、
政府に頼まれ視察に訪れた
最初のお雇い外国人が、
上記のような見当違いの
返答を政府に行ったからです。
 
しかし、
違う工部省鉱山寮雇技長ゴットフレーが視察し、
そこで前述とは全く異なる視察報告をします。

殖産興業に力を注ぎたい明治政府。

その源となるエネルギー・石炭。

政府は明治11年にようやく
三池炭鉱に近代的技術などを導入し始めました。

と、同時に明治政府の高官た達も視察と称して
次々に三池炭鉱に訪れています。

明治12年5月28日 工部省工部大輔山尾庸三、工部書記官大鳥圭介 三池炭山点検ノタメ来山

明治15年1月19日 参議院議長、参議伊藤博文及内務少輔芳川顕正三池炭山視察ノタメ来山

明治16年4月 工部省佐々木高行三池炭山視察ノタメ来山

明治16年7月 大蔵卿松方正義三池炭山視察ノタメ来山

明治17年11月 農商務卿西郷従道三池炭山視察ノタメ来山

明治18年5月 海軍卿川村純義三池炭山視察ノタメ来山
    
当初は期待されていなかった三池炭鉱も、
ゴットフレーの高評価のお墨付きのおかげで
炭鉱の採掘環境自体にも近代化が進み、
実際に如何がなものかと視察に高官たちがみえ
明治政府がこの三池の炭鉱を
重要視していたことが伺えます。



そうそうたるメンバー!
写真はないかと探したのですが、
伊藤博文、
上記のメンバー以外に後藤新平の写真を見たことはあるが、
どの史料だったかは記憶にないとのことです。
by 大牟田市石炭産業科学館

悔しいな~!
今は第2の夕張と呼ばれるこの三池の地にも
明治政府高官を惹きつける工業があったというのに。

日本の近代化の一端を支えたと言えるでしょう。





〈参考文献〉
NPO法人 大牟田・荒尾 炭鉱のまちファンクラブ『報告書 三池港関連施設の評価と保存活用の啓発を行うことを目的とした近代化遺産保全事業』シャザームメディックス有限会社
・大城美知信・後藤東洋男共著『わたしのまち 三池・大牟田の歴史』古賀書店

〈インタビュー〉
・大牟田市石炭産業科学館