桜も散り、
就職活動中の身の私としては、
散りゆく桜が自身に見えて仕方がない
今日この頃です。
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そんなときは、
確固たる信念を持って生きた
幕末志士達に元気を頂くに限ります。
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今回は、
禁門の変にて戦死された
「来嶋 又兵衛」 さんを取り上げたいと思います。
この方も、
私の実家がある福岡県大牟田市(三池藩)
にいらっしゃっています。
私の出身地、
三池藩と隣り合っていた柳川藩領の境界が
以前ご紹介した三池藩の陣屋近くにありました。
【福岡県大牟田市三池 『 陣屋跡 』 2008.3撮影】
『 三池藩と柳川藩の境界 』 2008.3撮影 】
柳川領は宿場町としてにぎわい、
三池藩領は陣屋町として栄えたそうです。
宿場町には、
かつて島原藩主常宿で栄えた旅宿島原屋もありました。
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そして、
幕末には長州藩から
武術留学生として来嶋さんが
おみえになっていたのです。
三池藩内の宮部という地に、
大石武楽という名のある剣士の道場で修行中のある日
友人数人と三池宿場町に酒飲みに出かけたことが
彼の日記に記録されています。
来嶋さんも大牟田に来ていたのかと思うと、
本当に大牟田もすてたもんじゃないです!
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せっかくなので、
ここで来嶋さんの熱い一生をご紹介しておきます。
『 長州藩に限らず、
志士の中では高齢である。
天保七年(一八三六)に来嶋又兵衛政常の
婿養子となり、
以後、柳川、江戸で剣術修行に邁進し、
嘉永元年(一八四八)に帰国、
同四年に家督を継いだ。
同年十月に手廻組に入ってい以後、
江戸方用所役兼所帯方など
藩の要職を歴任した。
攘夷活動に入った頃はすでに一家を構えていたが、
又兵衛は最も激越な志士でもあった。
文久三年(一八六三)年に高杉が奇兵隊を創設すると、
又兵衛は遊撃隊(のち遊撃軍と改称)を組織し、
互いに連携して国事にあたるとした。
元治元年(一八六四)の蛤御門の変に
際しては最も過激に出兵を主張し、
事実、
兵を率いて京へのぼり、
激戦を繰り広げた。
【 京都市上京区京都御苑
『 蛤御門 』 2006.8撮影 】
この戦闘中、
馬上の又兵衛は胸部を鉄砲で撃ち抜かれ、
助からないと悟って自害した。
介錯は甥の喜多村武七、
又兵衛は喉を突いて死んだという。
古武士の風韻を持った志士だった。 』
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享年46歳。
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【 京都上京区京都御苑
『 清水谷家の椋 』 2006.8撮影 】
蛤御門の変で、
最も激戦地となったのがこのあたりでした。
今も残る大きな椋の木は、
当時ここに清水谷という公家屋敷があったことから
清水谷家の椋と名付けられています。
来嶋さんはこの木の付近で戦死したと伝えられています。
来嶋さんの死によって長州勢は総崩れとなり、
敗走する結果になりました。
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妻に向い、
国事に奔走するのも 「これが最後」 といって
出兵した来嶋さん。
結果的に、この蛤御門の変が来嶋さんの最期となりました。
<引用文献>
・ 『 ふるさと散歩~大牟田再発見~ 』
著者 絵・中川原 廣吉 文・藤吉 齊
・ 学研 『 図説・幕末志士199 』
・ ユニプラン 『 新選組と幕末の京都 』