前回から始まりました

『 西南戦争 』 シリーズ。


前回は、 『 薩摩軍 』 の編制などをご紹介したので

今回は、 『 新政府軍 』 をご紹介したいと思います。


呼び名はあえて

『 官軍 』 、 『 賊軍 』 ではなく、

『 新政府軍 』 、『 薩摩軍 』 で。



まずは、編制からです。



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<新政府軍編制>


征討総督         = 有栖川宮熾仁親王  :皇族

参軍            = 山県有朋(陸軍)   :長州

参軍            = 川村純義(海軍)   :薩摩

第1旅団司令長官    = 野津鎮雄       :薩摩

第2旅団司令長官    = 三好重臣       :長州

第3旅団司令長官    = 三浦梧朗       :長州

第4旅団司令長官    = 曽我祐準       :柳川

別動第1旅団司令長官 = 高島鞆之助      :薩摩

別動第2旅団司令長官 = 山田顕義       :長州

別動第3旅団司令長官 = 川路利良       :薩摩

別動第4旅団司令長官 = 黒川通軌       :伊予小松

別動第5旅団司令長官 = 大山巌         :薩摩

新撰旅団司令長官   = 東伏見宮彰仁親王  :皇族

熊本鎮台司令長官   = 谷 千城        :土佐



この編制をみると、

主要な方々はほとんど長州と薩摩・・・


この のちの世を見るようですね・・・。


その一方で、
薩摩人は、身内同士で戦うこととなったんですよね・・・。


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では、

何人かご紹介していきましょう。



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まずは、

征討総督 有栖川宮熾仁親王 さん?から。


この方は、大河 『 篤姫 』 でおなじみですよね。

そう、皇妹和宮こと宮さんのフィアンセだった方です。



この方が歴史上に登場するのも、

嘉永4(1851)年

親王弱冠16歳、宮さんが6歳の童女の時です。


文久元(1861)年春に

挙式の予定となっていたものの

政局の悪化により

宮さんは公武合体のために将軍家茂に降嫁しました。


慶応3(1867)年

王政復古の大号令が発せられるや

天皇親政を岩倉具視や三条実美らの人選により

新政府の総裁職につきました。


戊辰戦争では征討大総督となり、

その後はご承知の通り

親王は皮肉にもかつてのフィアンセのいる

江戸攻めを命じなければいけませんでした。


しかし、

大河でも描かれているように

宮さんや篤姫が江戸総攻撃の中止を懇願したことにより

一時差し止められ

その後は勝海舟と西郷隆盛の英知によって

江戸城は無血開城となりました。




運命とはどうなるか分からないものですね。

そして、再び縁がどうつながってくるかも分らないものです。



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お次は、

第4旅団司令長官 曽我祐準 さん をご紹介いたしましょう。


曽我さんは私の郷里近くの柳川藩ご出身ですのでね。

実は私も、このことは今まで知らずに

柳川藩出身の方が司令長官にいらっしゃったとはビックリです。




史跡ではありませんが・・・柳川と言ったらこれですよね↑

福岡県柳川市 『 川下り 』

曽我祐準は、

天保14年 現福岡県柳川市生まれ。

父は柳川藩士です。


元治2(1865)年 に長崎へ出て洋学を学び、

明治元(1868)年 新政府の海軍御用掛となりました。


のち、海軍から陸軍に転じ、

西南戦争時は上記のように第4旅団司令長官として

薩摩軍の鎮定にあたりました。


その後も、

新政府でご活躍をされます。



正直、

この方はノーマーク人物だったので

何も知りません。

今度、帰省しました折には柳川の図書館へと

足を運び郷土資料をあさりたいと思います。



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別動第2旅団司令長官 山田顕義 さん 。


長州藩のご出身です。



山口県萩市 『 山田顕義誕生之地 』


安政5(1858)年

に15歳で松下村塾に入門し


元治元(1864)年

には蛤御門の変に従軍したが、敗れて帰藩。


慶応元(1865)年正月

高杉晋作の挙兵に呼応し

御楯隊司令となって大田・絵堂に戦いました。


翌2年には高杉とともに大島郡で幕府軍艦を撃破するなどで

諸所で戦功をあげ

戊辰戦争では整武隊総督として東北・函館に戦いこれを鎮撫しました。


この功で永世賞典禄600石を受け

明治4(1871)年は陸軍少将に任じられました。


山田は伊藤博文、井上馨、山県有朋に次ぐ長州閥の地を確保しましたが、


明治25年

生野銀山を視察中 坑道に落ちて亡くなりました。




山口県萩市 『 山田顕義先生之像 』




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最後は、

薩摩藩出身 別動第5旅団司令長官 大山巌 さん。


大山さんは、西郷隆盛の従弟にあたり

幼少期から影響を受けてきた人です。


そんな西郷さんら同藩の肉親を西南戦争で敵に回して戦って以来

寡黙になったといいます。



寡黙になった西南戦争後は、


軍人としては

陸軍卿、参謀本部長などを歴任し

軍政と軍令両面で奔走するとともに

日清・日露戦争では現地軍の司令官を務めました。


政治家としては

参議、文部大臣、法務大臣などを務めました。



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4人しかご紹介できませんでしたが、

このような方々をふくむ新政府軍でした。



次回は、

戦闘の経過に従って私がめぐって来た西南戦争の史跡を

ご紹介していきたいと思います。





参考文献

・学研 『 図説・幕末戊辰西南戦争 』

・学研 『図説・幕末志士199』


参考HP

・国立国会図書館 『 近代日本の肖像 』

http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html