えっ。
「何が。」
あっさり言われて、イェソンは少し驚いた声で返す。
リョウクは寝言で自分を呼んだだけだし、それも別に人に聞かれたら恥ずかしくなるような二人だけの秘密の呼び名で呼んだわけでもない。ただ『ヒョン』と言っただけだ。最近は『オッパ』と間違えることも少なくなってちょっとさみしいが、もちろんそれでも十分すぎるほど可愛かったし、不意に呼ばれた嬉しさもあって思わず含み笑いにはなったけど。
でもキュヒョンは、この変に真面目なところがあるお兄さんがそんな風にあれこれ考えていることはお構い無しで、
「何がって…、日頃からこうやって撫でまわしてるんでしょ。」
と、ニヤニヤして
「あぁやらしい。」
すらりとした腕を伸ばして、冷やかすように肩を小突いてきた。
わざと上から目線でそう言ってからかうと、
「いやらしくないよ、全然。」
案の定イェソンは真剣に、でもほんの少しだけ面白がっているような様子で返してくる。やらしいだなんて何を想像してるんだ、と思いつつも、だいたいキュヒョンがこうやってふざけてくるのはいつものことなので慣れているのだ。
「普通に撫でてるだけだろ。全然いやらしくなんかない。」
同じ言葉を繰り返して、イェソンはうつ伏せになって眠り込んでいるリョウクの肩を撫でた。とても清純だ。普通の猫好きな人の方が、愛猫をもっと撫でまわしているに違いない。
キュヒョンの目にどう映っているか知らないが、これぐらい、自分たち二人にとっては日常茶飯事というかごく自然なスキンシップのひとつだった。
毎朝、仕事に行くイェソンを見送ってもくれないリョウクだが、一日が終わって帰宅して着替えているといつの間に部屋に入って来たのかわからないぐらいそーっと近づいてきて、後ろから抱きついてくることもよくある。そんな時、イェソンがシャツのボタンを外す手を止めて自分の腰に回された腕に愛おしく重ねると、リョウクはもっとぎゅっとしてきて、
『ヒョンおかえり…。』
と、もごもご言うのだった。
そうやって背中にリョウクの温かい呼吸が広がっていくのを感じていると、イェソンの心は本当に穏やかになった。
ただいま。ごめんな。さみしかったんだな。
よく人は何かにつけて「癒される」と言うけれど、自分はリョウクに出会って初めてその感情を実感したように思う。少しでもその温かい体に触れれば安心して、とげとげしさがすーっと消える代わりに愛情が満ちていく。今までにも何人か付き合った人はいたが、何かをしてあげたりしてもらったりすることで得られる満足とは違う気持ちで自分が幸せになれると、この歳になって初めて知った。
それもこれも全部、リョウクに出会ったからだ。
「いいなぁ。」
キュヒョンはしみじみと、目の前で、また自分の存在を完全に忘れているような雰囲気で神妙な顔をしてじっとリョウクを見つめているイェソンに向かって言う。
怖い怖い。ヒョン怖いよ。と苦笑いだ。
「俺もリョウクほしいな。」
本心からそう言って、お前以外何も見えない、という熱い眼差しで黙りこんでいるイェソンの視界に入るように大きく手を伸ばし、リョウクの頭を撫でる。猫はだいたい一日のうち14時間ぐらい寝ているというが、熟睡しているのはそのうちのほんの数時間らしいので、起こさないようにと気をつけながら。
「…うーん……。」
ほしいと言われても。と、イェソンは無意識のうちに唸って、リョウクとキュヒョンを交互に眺めた。
お菓子みたいに、じゃああげるよと言うわけにはいかないけれど、ほしくなる気持ちはよくわかる。だがよくわかるからと言って、あげるわけには…それどころか貸すことも出来ないし貸したくもない!けれど。ただ、逆の立場だったら自分はこんなふうにストレートに言えないだろうと思うと、キュヒョンの無邪気さに感心するやらうらやましくなるやらだった。
「あげるのは無理だな……。」
100%真剣に受け止めて、やんわりイェソンは答える。実の弟同然に大切にしているキュヒョンの望みならたいていのことは叶えてあげたいと思うが、さすがにこれは無理なお願いというものだ。
するとキュヒョンは、
「わかってるよそんなの。」
と、言って、ふふふんと笑った。
「ヒョンがいない間に家に来て、黙って持って帰ったりもしないから安心して。」
冗談っぽく続けると、イェソンは急に真面目な顔をして、
「わかってるよ。お前が人のものに手を出したりする人間じゃないっていうことぐらい、よくわかってる。」
と返す。
いやいや、そんな深刻な話はしてないんだけど…。
まったく、このお兄さんときたら自分を十分に信じてくれているのはうれしいけれど、とキュヒョンは心の中で感謝しつつ呆れつつ、まじまじとイェソンの顔を眺めた。筆で払ったようなシャープな目が印象的で、よく知るまではシリアスな人のように見えるのに、実際にはユニークで予測不可能なヒョン。面白い時より面倒くさい時の方が多いけどなぜか離れられない不思議な魅力があるこの人に、神様がリョウクを出会わせてあげようと思った気持ちもなんとなくわかる気がする。
キュヒョンは返事をする代わりにふふっと笑って、もう一度リョウクを撫でた。すっかり警戒心がなくなっているみたいで、二人の間が自分の居場所だと高らかに宣言するかの如く体を伸ばしてすやすや眠っている。陽が落ちて完全に夜になった部屋の中にはテレビの光だけで、灯りが必要なぐらいの真っ暗さになっていた。
楽しいと、一日はあっという間だ。
「…いいなぁ。」
と、キュヒョンは繰り返す。
「…うん。」
雨の気配はなかったが、髪の毛の中にむくっと姿を現したリョウクの猫の耳を触りながら、イェソンは静かに答えた。そうなんだ、すごくいいんだ、と。
リョウクと出会って自分の人生は素晴らしいものになった。これこそまさにバラ色の人生だと言っても言い過ぎじゃない。だけど、だからと言っていきなりキュヒョンに対して「お前もいい人を見つけろよ」とか何とか上から目線で物申しだすのはおぞましいことに思えた。その上「いい人が見つかるように願ってるよ」と余裕という名の勝ち誇った笑みを浮かべるなんて、想像しただけでも嫌な気持ちになる意地悪な言動だ。
イェソンは急にフラットな表情になると、
「…でも、俺は幸せだけど、…リョウクが俺でよかったかどうかはわからないからな。」
と言ってうつむく。
時々リョウクに、自分のどこが好きなのか聞いてみることはあったが、自分と一緒になって幸せかどうかと聞いたことは一度もなかった。
一緒に、って、いや結婚したわけじゃないし表現がおかしいかもしれないが、こうして一つ屋根の下に暮らし始めてから…俺のところに来たことをどう感じているんだろう。もっと違う人に出会っていたら、とか、何でイェソンヒョンなんだとか、思っていないんだろうか。
などと考え出すと色んなことが気になってきて、今すぐリョウクを起こして聞いてみたいような、怖くてそんなこと聞けないような、両方の気持ちが胸を去来する。
だって、もっとお金持ちでハンサムで優しい人のところに行きたかった、って言われたらどうしたらいいんだ?
(はぁ…イェソンヒョン…。)
さっきまであんなに楽しそうだったのに。
ヒョンにはよくあることだが、突然の感情の急降下だ。でもまるで足蹴にでもされたような暗い顔をするイェソンにも、こういう繊細なところも今に始まったことじゃないからな、と、キュヒョンは特に驚くこともなく
「…今度、リョウクに聞いておいてあげるよ。」
さらっと話しかけた。
確かな根拠があるわけじゃないけど、近くで見ていれば二人が同じくらいお互いを好きだということはよくわかる。雰囲気とか話しかける口調とか相手がいない時の態度とか、そういうもので一目瞭然だ。
それなのに、当人たちにはあまりわかっていないらしい。
そんなに心配しなくても、リョウクもヒョンと出会えてよかったと思ってると思うよ。と、今すぐ言って安心させてあげたいけど、そこまで自分もいい人じゃないし、ヒョンをからかうのは面白いから、まぁこのままそっとしておこう。
「えっ、…、」
「いいよそんなの聞かなくても、とか言わないでよ。めんどくさいから。俺だって、聞くって約束するわけじゃないし。」
イェソンが何と返してくるかだいたいの予想がつくキュヒョンは、先手を取って釘をさす。
こうなると頭の回転の早さと言葉選びの鋭さでは勝てないイェソンは、
「言わないよ、そんなこと…、」
と、精一杯の反論というか言い訳を返して応戦した(つもりだ)。
本当に可愛いお兄さんだ。
「あっそ。」
人工知能と対戦して勝利を収めたチェスのプレイヤーのような表情で、キュヒョンはにやりと口もとをほころばせる。それでも一応最後まで聞いてくれるし、チャームポイントの口角がきゅっと上がるとたちまちいつもの愛嬌のある笑顔になった。
まったく、と思いながらも楽しい気分になって、イェソンはリョウクの耳を摘む。柔らかくて小さな可愛い耳。
すると、
『もーーー!……、、』
と不機嫌そうにつぶやいて、リョウクはその手を払いのけた。
…怒られた。
「ヒョンのこと嫌いだって。」
と、キュヒョンがまた笑う。
「…みたいだな。」
可笑しくなって、イェソンも笑った。
楽しい時はあっという間。だけどそれでも、人生は楽しい方がいいに決まってる。
夏が終わり、秋を知らせる雨がすぐそこまで近づいているようだった。
** END **