【イースターメッセージ】       キリストの復活、その歴史的事実が持つ意味 

 執筆者 : 安間孝明

 

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 最初は迫害者だった使徒パウロ

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと・・・(1コリント15:3~4)

この記事は、異邦人(ユダヤ人以外の人)の使徒として、復活された主イエス・キリストから選ばれたパウロが、コリントという都市の兄弟姉妹に宛てた手紙の中で書かれているものです。彼は、ユダヤ教徒として最も厳格なパリサイ派のヒルレル学派に属し、ヒルレルを超える律法学者といわれていたガマリエルの筆頭の弟子として、将来を期待されていました。その熱心さは、イエスをキリスト(救い主)と信じる人々を迫害し、殺意をむき出しにするほどでした。

 

その彼が転じて、イエスをキリストだと伝え、命懸けで人々を信仰に導く者になりました。この記事では、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたこと」だと言っていますが、「私も受けたこと」とは一体何だったのでしょうか。

 

ユダヤ教徒は、旧約聖書39巻が約束しているメシヤ(「油注がれた者」の意味、キリスト=救い主)を待ち望んでいます。パウロもその一人でした。当時、彼はサウロ(イスラエルの初代の王サウルに由来する名前)と名乗っていました。自分は厳格なパリサイ派に属しており、律法を落ち度なく完璧に守っていると自負していました。

 

しかし、「ナザレのイエスがメシヤだ」という一派がエルサレムでも増えてきたのです。それを言い広めていたペテロは、彼らがばかにしていた田舎者、ガリラヤの漁師だったのです。また、彼らの仲間の一人ステパノは、弁が立ち、彼が祈ると奇跡が起こりました。他国からエルサレムに帰還して来たユダヤ教徒が、ステパノに議論で負け、怒りに任せて彼を宗教裁判にかけようと逮捕し、ユダヤの宗教議会に訴えました。

 

ステパノが、旧約聖書の預言するメシヤ、キリストがナザレのイエスであることを見事に語り、反論の余地がなくなると、そこにいたサウロも死刑に賛成の票を入れ、その場で死刑を執行してしまいました。大きな石で打ち殺す様は、リンチそのもので、残酷な光景でした。サウロは、それが「神に対する義だ」と自負していたのです。その自己義認の思いは拡大し、「この道の者」と呼ばれ始めたイエスをメシヤ、キリストと信じる人たちを、なりふり構わず男も女も家々から引きずり出し、牢(ろう)へぶち込んでいきました。

 

人生が180度変わった使徒パウロ

パウロはさらにその手を広め、議会から捕縛隊長としての任命をもらい、エルサレムから200キロ以上あるダマスコへ兵を伴って向かいました。しかし、そのダマスコに着く直前で、ローマの高等裁判所で死刑判決を受け、十字架で死んだはずの主イエス・キリストが現れたのです。

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである・・・」(使徒9:3~5)

インチキメシヤと思い込んでいたナザレのイエスが、十字架で死んだはずの憎きイエスが、自分の前に現れ、「なぜわたしを迫害するのか」と問われたのです。大きな衝撃です。パウロは、非常に大きなショックを受けました。

 

「自分は神に熱心に生きてきた。律法を守り、神の義に生きてきた。メシヤも待望してきた。しかし、こともあろうに、その方を憎み、その方が愛している者たちを迫害していたとは・・・。それほどに大きな罪はない。もはや、自分をサウロと呼ぶことはできない」

 

このように思ったはずです。そして彼は後に、パウロ(小さな者)と名を改めました。この復活された主イエス・キリストとの出会いが、パウロの人生を大きく変えました。彼の人生を180度変えてしまう背景は、聖書にあります。

 

人類に最も大きな影響を与えた書物

パウロは、「聖書の示すとおり」と言いました。ガマリエルから聖書を学び、メシヤ、キリストについて聖書がどう預言しているかを知っていたと思われます。主イエス・キリストについて、他に預言されていないか調べることもできました。

 

聖書は、人類史の中で成文化された書物としては最も古いものの一つで、これほど多くの人々に多大な影響を与えているものはありません。しかし、日本ではあまり読まれていません。これは、日本にとって大きな損失です。紀元前1600年ごろに登場したモーセによってまとめられたとされるモーセ5書(創世記から申命記までの旧約聖書の最初の5つの書)には、宇宙の創造から人類の誕生、イスラエルの歴史、法律の基礎となるような規定が記されています。この内容は、最初は口伝えで語り継がれてきました。それらが文字として、パピルスや羊の皮に筆記されて残され、神と人との関係、人と人との関係について深く示唆を与えてきました。

 

ナイチンゲールも、ニュートンも、リンカーンも、ヘレンケラーも、この聖書の価値観に立って生き方を定めてきました。日本の福祉は、この聖書の影響を受けた人々によって土台が据えられました。岡山孤児院を始めた石井十次も、知的障がい者の教育を始めた石井筆子も、この書物の影響を受けました。

 

人間関係について多くの本が出ていますが、神と人との関係について、これほど多岐にわたって、神の歴史への介入も含め書いている本は他に類を見ません。何よりもメシヤについて、モーセ5書の時代から預言し、どの時代に登場するのか、どの部族から生まれるのか、どの町に誕生するのか、どの地域で活動するのか、いつごろ死ぬのか、どのように死ぬのか、そして、復活されることさえも刻銘に預言しているのです。

 

歴史の事実である主イエス・キリストの復活

パウロは、自分がインチキメシヤと思っていたナザレのイエス以外に、この預言に該当する人物はいないことを年々、深く知ることになります。

また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。(1コリント15:5~10)

ケパとは、12使徒の1人であるペテロのことです。12使徒は、次は自分たちが捕らえられて十字架につけられるのではないかと考え、恐怖の中で隠れ家に身を置いていました。そこに主イエス・キリストは、壁を抜けて入ってこられ、十字架の傷跡を見せたり、食物を食べたりして、霊体ではないことを示されました。また、キリストの復活の証言者が500人以上いたことも書かれています。

 

パウロは、主イエス・キリストの十字架の死から20年ほどした時期に、コリントの兄弟姉妹に宛てた手紙に書きました。当時、復活の主イエス・キリストに出会った大多数が生き残っていたと言っています。主イエス・キリストの肉親の弟ヤコブにも会い、そして主イエス・キリストを信じる人々を迫害していた自分にも現れてくれたと言っています。あのステパノ虐殺に関わっていた自分にも愛を持って語りかけてくれたことを感動と共に思い出しています。

 

この罪責感は、パウロを時々苦しめるものとなったと思います。その罪を赦(ゆる)す神の小羊として、自分の罪の償いのために、代わりに主イエス・キリストが死んでくださったことが、聖霊によって教えられていきました。これが贖(あがな)いであり、恵みです。受ける資格のない者が驚く祝福を受けたのです。この出来事が歴史の事実であったので、使徒パウロが誕生したのです。

 

ユダヤの議会は、弟子たちが主イエス・キリストの遺体を墓から盗み出したといううそを、金を使って広めました。

 

この主イエス・キリストの復活ほど、ねつ造が難しいものはないでしょう。弟子たちが死体を隠し、よみがえったとうそをついたのでしょうか。石で封印されてローマ兵が夜番していた墓を、誰が開けたのでしょうか。主イエス・キリストの死を悲しみ、恐れていた使徒たちは、一度に集団で幻影を見たのでしょうか(主イエス・キリストが現れるまでは、一人の使徒も主イエス・キリストご自身が生前に言われていた復活を信じていませんでした)。500人以上の証言者は、命を懸けてでもうそをつき通すことができたのでしょうか。そうしたところで、何の得がありますか。

 

主イエス・キリストの復活と私たちの関係

主イエス・キリストの復活は、歴史の中に起きた事実です。では、この主イエス・キリストの復活が現代を生きる私たちとどう関係するのでしょうか。

 

人はどこから来て、どこへ行くのでしょうか。日本人の多くが考えるように、人は死んだら無になるのでしょうか。また、多くのメディアが無責任に伝えているように、霊の世界は本当に存在するのでしょうか。「霊能者」といわれる人たちの言う先祖の霊が出たとかという話が本当であるなら、もっと死後の世界について真剣に考えておく必要があるのではないでしょうか。

 

怖いもの見たさで興味を持ったり、お茶を濁したりするのではなく、死は全ての人に確実にやって来るのですから、死後人はどうなるのか、どうしたら神との良い関係を持てるのか、少なくとも聖書が言っていることを知るべきではないでしょうか。この物質世界の営みを終え、霊的世界へ行ったとき、何が起こるのかを知っておく必要があるのではないでしょうか。そして、それを信じるか否かは、この物質世界にいるうちに決めなければならないのです。それが、この物質世界の存在意味です。

 

主イエス・キリストは、十字架で死んで葬られ、3日目に復活されました。その間、存在が消えていたわけではありません。それは、死後の世界がある、霊(物質外)の世界があることを示しています。人間は、死んで終わりではないのです。

 

イエスをキリストと信じた者に与えられるもの

また、復活された主イエス・キリストが何者なのかを知る必要があります。ユダヤの議会が、なぜ主イエス・キリストを殺したのかというと、次のように書いてあります。

このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(ヨハネ5:18)

主イエス・キリストは、ご自身のことを神と自覚していました。神を父と呼ぶことは、ユダヤ社会ではタブーだったのです。主イエス・キリストは、父なる神が旧約聖書の中で預言された救い主です。

 

人がイエスをキリスト(救い主)と信じると、何が与えられるのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

イエスをキリストとして信じると、霊魂は滅びることなく、永遠のいのちを持つことができる、と聖書は言っています。

 

日本の多くのキリシタンは、踏み絵を踏むだけで命が助かるのに、なぜ死を選んだのでしょうか。永遠のいのちを彼岸的な希望としてではなく、実体としてしっかりと握っていたからだと思います。キリストの復活という土台のもとに、「人は死んで終わりではない」ことを、歴史的出来事と結び付けて受け止めていたからです。

 

地上で生き延びてもいずれ死にます。しかし、永遠のいのちをもらって神との愛の永遠の交わりの世界に入る方がはるかに良いと知っていました。この永遠のいのちとは、霊の世界で永遠に存在するということだけではありません。これは、神との愛の交わりの世界を指す言葉です。

 

主イエスを信じることのどこにリスクがあるでしょうか。信教の自由のない時代や国ならともかく、今の日本で信じることにどのような問題があるでしょうか。主イエス・キリストが、あなたの罪のために代わりに裁きをその身に受けて殺されたのが十字架だ、と聖書は言っています。そのことを感謝して受け止るなら、人は罪赦され、永遠のいのちを与えられます。虫のいい話に聞こえるかもしれませんが、聖書は本当にそう言っています。「信じる者がみな永遠のいのちを持つ」(ヨハネ6:40)は、主イエス・キリストご自身の言葉です。

 

この方は、ペテン師か、インチキ救い主なのでしょうか。それとも、霊的世界の真理を語っている真の救い主なのでしょうか。霊的世界から来た方は、それほどいません。いや、一人だけでしょう。この物質世界から霊的世界について語っている人は、数えられないほどいます。しかし、天から下って来られ、死んで葬られ、そしてよみがえられた方は、ただ一人です。

 

イースター(復活祭)は、この主イエス・キリストの復活を祝う日です。

イースター、おめでとうございます!