「もしもし、もしもし。ダメかぁ~」

「課長。課長ですか?」

「おかあさ~ん!!!」

 水嶋ユウは、壁にもたれるように立っていた。

「今、何時なんだろう?」

「時間なら……ちょっと待って。三時二十八分」

「フ~。どうなっているんだ?」

 こんな状況になっても、ユウ自身何も出来なかった。

「すいません。今、ここに何人いるでしょう?」

「どうかな? オレと……村田。村田、いるよな?」

「いますよ。先輩」

「私、トモって言います」

「ああ、私も。沢田カズエ。ここのビルで働いています」

「働いているなら、非常ボタンとか知らないの?」

「オイ、村田。声を荒げるな!」

「すいません。先輩」

「オレじゃなくて、さっきの……」

「……沢田です」

「そう、沢田さんに」

「別に謝ってもらわなくても。知らないのには変わりありませんから」

「ほかには? 他にはいないの?」

「ああ、オレ。水嶋ユウです。予備校生」

「時間を教えてくれたのはキミだね?」

「ハイ」

 ユウが携帯電話を顔の近くに持っていった。

「ちょっと換わって」

「おばさんはこれだからな」

「村田!」

「だってそうでしょ? 若い男を見たら、直ぐに近づきたがって……。あれじゃ、おばさん丸出しですよ」

「ウ、ウン!!」

「謝れ!」

「すいませんでした」

 わずか縦横二メートルほどの床に、男が三名、女が二名いるらしい。

「気分が悪い人とかは?」

「大丈夫」

「平気です」

「オレも」

「私も」

「ちょっと止めてください」

「どうした。どうした?」

「村田さんって言いました? 貴方じゃないの?」

「オレ? まさか、止めてくださいよ。オレだっておばさんになんか」

「おばさんだって。誰がよ!」

「オイオイ、ケンカするな。村田もだけど、沢田さんも。こんなに狭いんだ。そう感情的にならないで」

「偉そうに」

「黙っていたら……」

「村田。相手にするな」

「ハイ、先輩がいうなら」


 それからしばらくは誰も口をきかなかった。そして、その間も状況が改善する様子はなかった。

「非常ボタン押しました?」

「押しただろう? 誰か、押したって人は?」

「私、押していません」

「キミは誰?」

「トモです」

「トモちゃんね。トモちゃんは押してないんだね」

「先輩、何か声が可愛いですね」

「変なことを言うな」

「トモちゃんは、いくつなんですか?」

「オイ、村田。答えなくていいから」

 すると、ユウのそばにいた女が囁いた。

「この場に及んで。サイテー」

「誰でもテンパルよ。いきなり停電したんだから」

「ユウくんって言ったよね?」

「うん」

「予備校生なの? 志望校は?」

「R高です」

「ええ?」

「知らないですか?」

「R高? ええ、いくつなの?」

「十五!」

「マジで? 先輩、聞きました? まだ十五ですよ。驚いた!」

「最近は成長が早いからな。オレの息子と同じ年か」

「先輩のお子さんって、もうそんなになります?」

「なるよ。オレ、今年で四十になるから」

「オッサンじゃん!」

「誰だ。今、言ったの?」

「村田~! 放っておけ」

「だけど……」

「ねぇ、トモちゃん!」

「ハイ」

「トモちゃんは学生?」

「違いますよ」

「社会人?」

「って言うか……」

「オイ、村田。そう詮索するな」

「すいません。だけど少しは緊張がほぐれるかなと思ったんですけど……」

「トモちゃん。気を悪くしないでね。コイツも悪気ないから」

「フフフ。分かってますよ」

「これは、よかった」


 天井に備えてあった照明が点滅したかと思うと、それとほぼ同時に動き出して、一番近いフロアーで扉が開いた。

「ああ~、助かった!! 先輩、大丈夫ですか?」

「正直、参ったよ」

 ユウが見たのは、スーツを着た二人の男達で、村田は小柄で細身、先輩と呼ばれていたのは小太りな中年だった。

「どんなヤツかと思ったら……。あんな感じ?」

 そう暴言を吐いたのは、若い娘だった。ユウは彼女がトモなのかと思った。

「ああ、課長ですか。沢田です」

 フロアーに出たところで、騒動を聞きつけた上司に女が説明を始めた。

「大丈夫ですか?」

 ユウも歩き出そうとした時、まだフロアーにしゃがみこんだままの女の子がいた。

「ちょっと」

「さぁ、トモちゃん」

 ユウが手を差し出した。

「ユウくん。ありがとね」

「あれ?」

 思わずユウはその声に驚いて、今、外に出たのかトモだとわかった。

「キミは?」

「……」

 ユウが女の子の手をつかんで引き上げた。

 あの中には本当はもう一人いたのだ。声を出せずにひっそりと助けが来るのを待っていた人が。

 ユウは彼女の手を引いて、そりあえず腰掛けられるベンチに案内した。

「いないのかと思った」

「ごめんなさい。言い出せなくて」

「良いんだよ。だけどホント、助けが来てよかった」

「……」

 真っ暗な空間では、声だけがその人となりを表す。外見で持つイメージから解き放たれた時、人が意外に純粋な心模様を見せてくれる。

「よかったら名前、教えてくれない?」

「トモです」

「ええ?」

「さっき、途中から誰かが私のかわり答えたから……」

「そうだったんだ」

 だけど、誰が誰を真似ていたのか今となっては分からなかった。

 しかし最後にユウに声掛けた女は誰だったのだろう。そんなことを頭の片隅で考えながら、ユウはまだ落ち着かない様子のトモを心配していた。

「何か冷たいものでも飲む?」

「いいえ。本当に大丈夫ですから……」

「ここで待っていて」

 ユウは周囲に目を向け、近くに自販機がないか探しに行くのだった。


 しばらくして、つめたい缶ジュースを手にしたユウが戻ってきた。

 しかしそこにはトモと名乗った女性はいなかった。慌てて周囲を見渡したところで、見つかるはずもなかった。

 もっとも、彼女が本当にトモだったのかも分からない。頼れるのは、あの時に聞いた声だけだった。

 仕方なくユウはもう一度ベンチに腰をおろしてジュースを一口飲んだ。

 村田というサラリーマンやその先輩の顔も段々と記憶から薄れていった。沢田カズエもトモと名乗った二人の女性も。

 もう一度、ユウはジュースを飲んだ。

 今度は喉を鳴らして、半分以上を流し込んだ。

 今までのことが夢のようだった。すべてが夢のようだった。


 つまり僕は朝からソワソワしていたわけだ。

 もちろん無縁だってことはわかっている。生まれてこの方、一度だってクラスの女子から手作りチョコなんてものをもらったことがないのだから……。

 そんなもてない男子でも、少しは期待してしまう。キセキってこんな時に起こるのだから。

 教室に入り、席に着く。

 机の中は、いつもと変わりがなさそうだ。ここにはなかった。

「うん、なるほどね。まぁ、そんなに早くクライマックスは来ないよな」

 僕は、周囲の男子を観察する。明らかに不自然だ。なぜって、みんなさりげなく机の中を気にしている。もちろん、誰にも悟られていないと思いながら……。

「そう簡単にあるわけないだろう! タチバナじゃあるまいし」

 タチバナというのは、バスケ部のキャプテンであり、成績優秀者の代表みたいなヤツだった。おまけに僕たちみたいなヤツからも慕われている。実際、ヤツの周りには他のクラスから女子が訪ねてきていた。

「まぁ、アイツは仕方ない。相手じゃないし……」

 僕は、午前の授業中、昼休みと放課後の掃除が怪しいんじゃないかと考えていた。


「いただきます!」

 いつも通り始まった給食の時間だった。

 そして、教室には異変がない。

 むしろ、今日が何の日だったのかさえ、忘れてしまいそうなくらい平穏な時間が流れていた。

「ごちそうさま」

 食器を教室前方にある長机上のカゴに戻す。

 席に戻れば、仲のいい友達が購買まで行こうという。

「いいよ」

 教室でじっとしていても仕方がないから、別の校舎まで出掛けることにした。

「なぁ、もらった?」

「いや、まだ」

「まだ? 予定あるの?」

「ない」

「同じ」

「一緒にするな」

「諦めろ」

「……」

 くだらないと思うだろうが、もてないヤツ同士でもそんなことを話すのだ。

 ひょっとしたら、自分だけ。そんなキセキを誰しもネガっているわけで。

「後輩からとかないのかよ」

「チョコの代金を請求された」

「フン。そいつ、なってないな」

「だろう? だけど、ゼロじゃ格好つかないから頼んだ」

「マジで?」

「母ちゃん。心配するだろう?」

「……だな」

 僕は、言われて初めて気付いた。

 家に帰れば、母親からチョコをもらう。

「ハイ、チョコレート」

 母が何気なく渡してくれたチョコにもそんな意味があったのか。僕は、せめて一個、だれからかもらえないかと考えた。

 午後の授業は、余ってそうな女子がいないか観察した。

 ねらい目は、女子マネージャをしている子。となると、隣の席の女子だ。

「さっきから気持ち悪いな。何よ?」

「あのさ。余ってな?」

「ハ?」

「だからその、小さいのでもいいんだけど……」

「意味わからないんだけど」

「またまた」

 そんなことを言っていたら、先生に怒られた。

 廊下に立たされても、僕はチョコのことで頭がいっぱいだった。

「そうか!」

 思わず、名案が浮んで喜んだ。

「その手があったか」

 ニヤニヤとしていると、また先生に怒られた。


 放課後になり、掃除中も特別なことは起こらなかった。だけど僕は、少しも凹んでいなかった。むしろ決心がついたってモノだ。

 そう、店で自分のチョコを買うのだ。

「200円になります」

 仕方ない。これも母を安心させるためだ。

 買い物袋をぶら下げた僕は、すこし誇らしげだった。近所でおばさんとすれ違う時も、袋を隠したりはしなかった。

「おかえり」

「ただいま」

「バレンタインのチョコ……」

 そう言い掛けた母の手が止まった。そう見つけたのだ。

「どうしたの?」

「どうしたのって見たら分かるだろう」

「わかるよ」

「だったら聞くなよ」

「ゴメンね。母さんの机の上に置くね」

「うん。ありがとう」

 作戦は完璧……のはずだった。

 僕は、その光景に愕然とした。不覚にも慌てていたから、ゴミ箱に捨てたと思っていたレシートを、母親がご丁寧に広げてくれた。

「着替えたらおやつあるからね」

 母も決まり悪そうに部屋を出て行く。僕はもっとバツが悪かった。

 母がくれたチョコと自分で買ったチョコ。それを二つ並べて眺めた。あまりいい気のするものではなかった。

 だからそれ以来、自分でチョコを買うのは止めた。