及川ユウスケは、腕時計に目をやってから目の前の棚に視線を向けた。
「最近、本なんて読んでないな」
今、どんな本が人気なのかも分からないままで、何か興味ありそうなタイトルを背表紙から探していた。
「誰だこれ? 知らないな」
かつては及川が他人の作品を読み漁っていた時期がある。
「フ~ン。短編集か。読みやすそうだな」
小さな声でつぶやいてみたものの、その作家の名前も代表作も知らなかった。
「”家”もう少し、目を惹くタイトルでもいいのにな。これじゃ、マイホームの造り方でも描いてあるのかと思うよ」
及川は心の中でそうつぶやいて、もう一度腕時計に目を向けてからレジへと歩き出した。
「すいません。基樹ワンコって人気の作家さんですか?」
レジで清算を済ませるとき、若い店員に聞いてみた。
「基樹、ワンコ。ああ!!」
手にしていた本を見てから、店員は何かを思い出した。
「”明日”ってタイトルの作品、読んだことがあります」
「面白かったですか?」
「面白いっていうか……」
すこし言葉を詰まらせた店員だった。及川は、腕時計を見て時間がないことに気がついた。
「いいです。また今度。ありがとう」
早口で伝えて、及川は店を出た。
「男か女か聞けばよかったな」
ブックカバーをつけてもらった単行本の中を歩きながら覗き込んだ。
「待ったか?」
「いえ、私も今来たところです」
「そうか。行こうか?」
「そうですね。及川さん?」
駅の入り口脇にあるポストの前で、会社の後輩と待ち合わせていた。後輩が二週間かけて営業してきた相手先に具体的な提案をする為だった。
「本、読むんですか?」
「そんなふうに見えないか?」
いつもはスポーツ新聞ばかり社内で見ているから、本を読んでいるだけで少し知的にでも映るのだろうかと及川は笑った。
「何て人ですか?」
「基樹ワンコ。お前、知っているか?」
「ああ、聞いたことありますよ。”明日”でしたっけ?」
「本屋の店員も言っていたな。俺が買ったのは別の……”家”って短編だ」
「そっちは聞いたことないですけど。”明日”っていうのは輪廻の話ですよ」
「リンネ?」
「そう。平たく言えば、生まれ変わりですよ。自分が死んだあと、またこの世に生まれてくるっていう……」
その時、及川は身震いを覚えた。それと同時に、心は中学時代へと旅立っていた。
及川ユウスケは、みんなよりも少し背が高いことを除けば、どこにでもいる中学生だった。放課後になれば、バスケ部の練習に打ち込んでいたし、ネットを隔てた向こう側で練習しているバレー部の中に、好きだった女の子がいた。
「もう少しでバレンタインだね」
「そうだね」
「及川くん。誰かからもらえるの?」
「どうだろうな。あんまりもてないから」
「フフフ。もしももらえなかったら、私があげる」
「若菜ちゃんが?」
そんな話をしてから、ユウスケはバレー部の松宮若菜を気に掛けるようになっていった。
「なんで僕に? もしかして、気があるのかな~」
練習中も、ついついネットの向こう側にいる若菜のことばかりが気になった。
多分、それを知ったのは、病室だったと思う。
「ユウスケくん。私のことを忘れないでね」
「何を言っているんだよ。若菜ちゃんは元気になって……。またバレーの練習……」
とはいえ、若菜の体は数ヶ月の間にみるみるやせ細っている。病室を一歩出れば、流石のユウスケも別れがあるのだと思うようになった。
「お母さん。人って生まれ変わるの?」
「どうだろうね。そう言うの聞いたこともあるし、嘘だっていう人もいるし。難しいことはわからないわ。自分で調べてみたら?」
母にそう言われて、ユウスケは学校の図書室を訪ねることにした。
「人は生まれ変わるんだろうか? どう思う?」
「何かのテレビで、子供のころは記憶が残っているとか言ってましたけど……。どうなんですかね。大体、命って何なんですかね。オレにはさっぱり」
後輩は両手を広げて、降参のポーズを取った。
「輪廻かぁ~。若菜ちゃん。もう生まれ変わっているんだろうか。この地球のどこかで」
空を見上げるようにしながら、及川は思った。
最後にあった病室で、若菜が言った。
「絶対に生まれ変わるから。だから私を探してね」
ユウスケは頷いた。しかしその時はまだ、輪廻を信じていたわけではなかった。
急に立ち止まった及川に、後輩も足を止めた。
「どうしました?」
「いや、誰かがこっちを見ていたような気がしたんだ」
「先輩、疲れているんじゃないですか? なんならオレ一人でも……」
「ちょっと待ってくれ。さっき、誰かが見ていたような気がするんだ」
「汗、すごいですよ」
後輩が及川の腕をつかんで、今にも道路の方へと歩き出そうとするのを制した。
「すまない。ちょっと取り乱したよ」
そう言うと、及川はハンカチで額の汗を拭った。
もしも若菜がこの世に生まれていたとしても……。あれから十二年。つまりまだ十二歳にもなっていないに違いない。そう思うと、ここ、丸の内界隈を歩いているはずもなかった。
「行こう」
「ハイ」
及川が歩き出したので、後輩も続いた。
その足取りは、いつもと変わりなかった。及川はプレゼンのことを考えていた。若菜のことは、心の片隅に残したままで。
「ズルイ! そう言うの、一番ずるいんだからね」
ベンチに並んで腰掛けていたナナミが、奥田リクの両肩を押した。
「ちゃんと言葉で説明して。いつもリクが言うでしょ。泣いたりしないで話して欲しいって」
とはいえ奥田だって、明日のことなど説明できなかった。
「奥さんのこと、やっぱり好きなんでしょ?」
ナナミは真っ直ぐに見つめながらそう言った。
「好きか嫌いかといえば……」
いつになく奥田の言葉はスッキリとしなかった。子供がいないとはいえ、家に帰れば妻が待っていて、ほとんど会話がないと言っても少しは話をした。
「だけど、キスはなしだよ!」
何も言わない奥田に、ナナミが言葉を継いだ。
「上手く言えないんだけど……」
「座って。ほら」
こんな時、ナナミは年下には見えなかった。
「奥さんのこと、好きなんでしょ? 隠さなくてもいいのよ」
優しい問いかけ方だった。
「一度は、誓い合ったからな」
「大きいんだね。想いが」
「そんなこともないけど……」
奥田は、両膝に肘を乗せる格好で頭を抱えた。
ナナミとの時間が、どれだけ幸せに近づいているのかと感じられた。しかしその一方で、毎日の暮らしの一コマに妻の存在があった。それはどうにもすることが出来ない現実で、紙切れ一枚だと思いながらも、妻との未来を最後まで探そうとしている自分に気付いていた。
「すぐに答えを出さなくてもいいよ。私だって、まだいろんな人と出会いたいなと思っているし。もう少しなら待てると思うし」
確かに年齢だけで言えば、ナナミはまだ結婚に焦らなければいけない年齢ではなかった。とはいえ、いつかそうも言えなくなる時が来るのは確実で、それが近い未来であるkとに変わりなかった。
「……しばらく。しばらく会うのよさないか?」
「エエ?」
ナナミの表情が一瞬で曇った。
「それって。二人の関係を終わりにしようってこと?」
「そうじゃない。だけど、少し考え直してもいいのかなって」
「直すって、何を? やっぱり奥さんの方が良いなって考え直すの?」
ナナミの手が奥田の左太ももの上に置かれた。
「イヤだよ。私、絶対に別れないから。さっきのキスは何? 誤魔化すため? 違うでしょ。そういう意味じゃないでしょ?」
ナナミの懸命な訴えに、奥田は返す言葉を見つけられずにいた。
「ナナミ。聞いてくれ」
頭を抱えていた奥田がナナミの手を握り返した。
「もしもな。もしも、アイツと出会う前にナナミと出会っていたら……きっと、いや絶対にこの手を放したりはしない。だけどアイツと、アイツと出会ってしまったんだ。オレはさぁ~!!」
「だからいいじゃない。まだ直ぐに別れて何て言わないし。私だって……」
「ナナミ。気付いているだろう? オレがそんなに器用じゃないこと」
「だけど……」
今度はナナミの方が地面を見つめて動かなくなった。
「少し離れてみよう。なあ、ナナミ」
ナナミは、何も言わなかった。奥田は、そう言って立ち上がり、何故か「ありがとう」とつぶやいた。
奥田の立ち去る足音が聞こえなくなるまで、ナナミは俯いていた。多分、多分もう二度と会うことが無いと感じていた。
しばらくして顔をあげると、そこの奥田の姿はなかった。奥田のマンションはこの近くにある。ナナミは過去に一度だけ訪れたことがあった。その時は奥田のことも奥さんのことも意識してはいなかった。なのに、あるときを境にして、奥田を男性として意識するようになっていたし、奥さんをライバルのように感じていた。
彼が自分に優しくしてくれたときは、何だがすこしだけ幸せになれたように感じる自分がいた。それが女としての幸せだともナナミは思った。
けれど奥田は本当の意味で真っ直ぐで優しい。ナナミが惚れていった部分でもあり、今となっては彼らしさとも思えた。
駅まで一人で歩いた。
多分、この駅を使うこともないだろう。ナナミは改札をぬけるとき、そんなことを思っていた。
まさか今日、恋が終わってしまうとは思いもしなかった。電車に乗り、座席に腰を掛けて一息つくと、受け入れられない現実が押し寄せてきた。カバンからハンカチを取り出し、目元を押さえた。涙が勝手に溢れてきた。
奥田との未来を心のどこかで描いていたナナミにとって、今度の失恋は初恋とはまた違った爪跡を残した。
理想の彼とめぐり合えたというのに……。その順番がどこかで違っていた。
「リクのバカ!」
ナナミは携帯電話のアドレス帳から彼の名前を削除した。まだこれでよかったのか分からない。だけどそうするしかなかった。
うなだれたままのナナミは、人波に流されながら乗り換え駅で次の電車に乗った。見慣れた景色に迎えられたことには、日はすっかり暮れていた。
最寄り駅で降り、近くのコンビニに立ち寄った。もう彼が好きなおつまみを買うことこともなかった。
奥田との恋は、キスからはじまった。そして終わる時も……。ナナミはサイフの中から小銭を探していた。そしてふと、いつか奥田のことを忘れられる日がくるのかなと考えたりするのだった。
