当初の予定では、岡城址に行き、
時間があれば瀧廉太郎太郎記念館へ
NOTEちゃんの駐車場所の関係で、先に
瀧廉太郎記念館へ行った
これが大正解
父親の仕事の関係で住んでいた旧居が記念館になっている
瀧廉太郎と豊後竹田の関係はよく知らなかった
夭逝したし、父親が転勤族であったので居住地は定まらなかった
それが、荒城の月と岡城址の関係性で竹田では郷土の偉人的扱いである
岡城址に行く前に、瀧廉太郎を知ることはとても有益だった
廉太郎の書斎、いな勉強部屋、から見た母屋
岡城址の瀧廉太郎像
ピントが、、、、、
裏を見たら、朝倉文夫の作と書かれていた。
そこには、朝倉文夫は、瀧廉太郎の3学年下で、大分尋常中学校(高等小学校)の同窓で、瀧廉太郎の楽器演奏の感想が碑文として綴られていた。
お土産を買おうと、近くの川口自由堂へ
荒城の月と三笠野の詰め合わせを買った
九州なので多少甘目だが、美味しかった
本店の壁を見ると、土井晩翠直筆の荒城の月の1番の歌詞が掲げられていた
戦後すぐに、晩翠が竹田を訪れた際に、自由堂店主が頼んで書いてもらったそうだ
晩翠は東京音楽学校(現東京藝術大学)に中学唱歌用の作詞を依頼され、荒城の月を作詞し、曲は公募され、瀧廉太郎の作が採用された
晩翠は仙台出身であり、戊辰戦争後の明治期の東北諸藩の荒城をイメージして作詞している。つまりは、晩翠は岡城址のイメージはなく、作詞したのだ
瀧廉太郎は、結核を患い、ドイツ留学を打ち切り帰国し、23歳で没する。
帰国の途上、ロンドンのテムズ川で停泊していた日本郵船の若狭丸で、
晩翠と最初で最後の対面をしたそうだ
このようなことを知り、登る岡城址は感慨深かった