当初の予定では、岡城址に行き、

時間があれば瀧廉太郎太郎記念館

 

NOTEちゃんの駐車場所の関係で、先に

瀧廉太郎記念館へ行った

 

 

これが大正解

滝廉太郎記念館1 23-11-21

父親の仕事の関係で住んでいた旧居が記念館になっている

 

 

瀧廉太郎と豊後竹田の関係はよく知らなかった

 

夭逝したし、父親が転勤族であったので居住地は定まらなかった

 

それが、荒城の月岡城址の関係性で竹田では郷土の偉人的扱いである

 

岡城址に行く前に、瀧廉太郎を知ることはとても有益だった

 

 

廉太郎の書斎、いな勉強部屋、から見た母屋

 

 

岡城址瀧廉太郎像

ピントが、、、、、

 

裏を見たら、朝倉文夫の作と書かれていた。

そこには、朝倉文夫は、瀧廉太郎の3学年下で、大分尋常中学校(高等小学校)の同窓で、瀧廉太郎の楽器演奏の感想が碑文として綴られていた。

 

 

お土産を買おうと、近くの川口自由堂

荒城の月三笠野の詰め合わせを買った

 

川口自由堂 23-11-21

九州なので多少甘目だが、美味しかった

 

 

本店の壁を見ると、土井晩翠直筆の荒城の月の1番の歌詞が掲げられていた

 

戦後すぐに、晩翠が竹田を訪れた際に、自由堂店主が頼んで書いてもらったそうだ

 

晩翠は東京音楽学校(現東京藝術大学)に中学唱歌用の作詞を依頼され、荒城の月を作詞し、曲は公募され、瀧廉太郎の作が採用された

 

晩翠は仙台出身であり、戊辰戦争後の明治期の東北諸藩の荒城をイメージして作詞している。つまりは、晩翠は岡城址のイメージはなく、作詞したのだ

 

 

瀧廉太郎は、結核を患い、ドイツ留学を打ち切り帰国し、23歳で没する。

帰国の途上、ロンドンのテムズ川で停泊していた日本郵船の若狭丸で、

晩翠と最初で最後の対面をしたそうだ

 

このようなことを知り、登る岡城址は感慨深かった