耶馬渓橋は、古くは日田往還と呼ばれた国道212号線の近くにある

 

国道212号線が山国川を渡る橋の右岸の下流50mほどのところにあるのだ

 

この国道の橋の山国川右岸上流は車両通行止めになっていた

 

橋から200mほど上流に進むと、青の洞門がある

 

青の洞門1 23-07-30

自動車が通行可能なこのトンネルは近代のものであり、

 

江戸時代に僧禅海が30年かけて手彫りしたのは、ロープが張ってある右の穴が入口

 

 

明り取りの穴(窓)から山国川がすぐ下に見える

青の洞門2 23-07-30

7月10日の豪雨では、洞門も水が入ったようだ

 

洞門の中に、弘法大師の像があったが、当時のものではない

 

すぐ近くに、耶馬渓新四国八十八ヶ所の第5番札所があった

青の洞門3 23-07-30

 

 

さて、明り取りの穴の写真から対岸の様子が分かる

 

対岸は平地であり、通行に支障がない

 

つまり、明治時代には、耶馬渓橋と、上流にある羅漢寺橋が整備されたので、洞門は不要なのである

 

面白い説明書きがあった

 

僧禅海は人々の安全のために洞門を掘った(菊池寛『恩讐の彼方に』)

 

加えて、

 

僧禅海は人や馬から通行料を取っていたといわれ、我が国初の有料道路ではないかと興味が持たれます

 

ちゃんちゃん笑

 

 

ただ、以下のような可能性もある

 

江戸幕府の方針で川には橋が架けられない

 

とはいえ、人々は必要に応じて移動していた

 

となると、川渡し職人がいたはずである

 

たとえば、耶馬渓渡しと羅漢寺渡しがあったとしよう

 

洞門が無料であれば、渡し職人たちの収入は減ることになる

 

そのための配慮であったかもしれない

 

洞門の通行料金徴収の是非は、その収入が何に使われたかで論じられるべきであろう

 

僧禅海がその収入を貧民救済などに使っていたのであれば、旅ができる余裕ある人々からの通行料徴収は正当化されるかも