耶馬渓橋は、古くは日田往還と呼ばれた国道212号線の近くにある
国道212号線が山国川を渡る橋の右岸の下流50mほどのところにあるのだ
この国道の橋の山国川右岸上流は車両通行止めになっていた
橋から200mほど上流に進むと、青の洞門がある
自動車が通行可能なこのトンネルは近代のものであり、
江戸時代に僧禅海が30年かけて手彫りしたのは、ロープが張ってある右の穴が入口
明り取りの穴(窓)から山国川がすぐ下に見える
7月10日の豪雨では、洞門も水が入ったようだ
洞門の中に、弘法大師の像があったが、当時のものではない
すぐ近くに、耶馬渓新四国八十八ヶ所の第5番札所があった
さて、明り取りの穴の写真から対岸の様子が分かる
対岸は平地であり、通行に支障がない
つまり、明治時代には、耶馬渓橋と、上流にある羅漢寺橋が整備されたので、洞門は不要なのである
面白い説明書きがあった
僧禅海は人々の安全のために洞門を掘った(菊池寛『恩讐の彼方に』)
加えて、
僧禅海は人や馬から通行料を取っていたといわれ、我が国初の有料道路ではないかと興味が持たれます
ちゃんちゃん笑
ただ、以下のような可能性もある
江戸幕府の方針で川には橋が架けられない
とはいえ、人々は必要に応じて移動していた
となると、川渡し職人がいたはずである
たとえば、耶馬渓渡しと羅漢寺渡しがあったとしよう
洞門が無料であれば、渡し職人たちの収入は減ることになる
そのための配慮であったかもしれない
洞門の通行料金徴収の是非は、その収入が何に使われたかで論じられるべきであろう
僧禅海がその収入を貧民救済などに使っていたのであれば、旅ができる余裕ある人々からの通行料徴収は正当化されるかも