以前にも書きましたが、才能がモノを言うこのスポーツでは、
才能を感じさせるボクサーを「天才」と表現することが多くあります。
そんな中、僕の観戦歴で「元祖・天才」とでもいいますか、
最初にそう思わせたボクサー…それが今回の名護明彦です。
名護はボクシングの名門、沖縄・興南高校出身。
当時からそのボクシングセンスは評価が高く、
卒業と同時に同校の大先輩、具志堅に引き抜かれて、
白井具志堅ジムでプロ生活をスタートさせました。
名護のボクシングスタイルは、普通の選手とは一線を画していました。
トップアマらしく基本はしっかりしている。
ステップワーク、ボディワークはスムーズで、
なるほど、さすが高校王者と思わせる。
しかし、繰り出すパンチはとてもポイント重視のアマチュアのそれではない。
全て一撃必倒…KO狙いのビッグパンチ。
まるで上半身と下半身が別のボクサーであるかのようなスタイルでした。
それまで見てきたどの選手とも異なるスタイル。
繊細で緻密なスタイルと、大胆で凶暴なスタイルの融合。
それが最も機能したのが、松倉から日本王座を奪取したあの試合でした。
当時11連続KO中と、破竹の勢いだった松倉に対して、
初回から右フックを直撃してダウンを奪うと、あとは独壇場。
守っては松倉のパンチを被弾はおろか、触らせもしないレベル。
最後もキレイにワンパンチで沈めたあの試合で、
名護の評価は一気に高まりました。
「この選手はただのホープとは訳が違う」
「コイツは世界まで一気に駆け上がる」
当時の関係者やファンの期待はスゴイものがありました…が、
今思えばこの試合をピークに、名護の「迷走」が始まりました。
世界への挑戦者決定戦的な位置づけだった山口戦は、
互いに見合う時間の多いディフェンシブな展開に終始し、
消化不良の内容での判定勝ち…。
この時は山口のスタイルと噛み合わなかった…ということで、
名護の評価が下がることはありませんでしたが、
肝心の世界戦で馬脚をあらわしてしまいます。
当時の世界王者は戸高秀樹。
日本人チャンプということもあって、
下馬評は名護有利が大勢を占めていましたが、
蓋を空けてみると、とにかく名護のパンチが空転を繰り返しました。
いくらスピードがあっても、無策で当たる程甘くない。
いくらパワーがあっても、当たらなければ意味がない。
本番でバランスの悪さを露呈した名護の評価は、
今度は一転して急降下しました。
僕はこの試合を見た時に、名護本人がこのバランスについて、
興味深いことを言っていたことを思い出しました。
曰く「右利きのサウスポースタイルの僕は、
ナチュラルなサウスポーに比べて、
どうしてもパンチを出す時のバランスが悪くなる」と。
しっくり来ないというニュアンスの話だったと記憶していますが、
うなぎ登りの世間の評価の中で、他でもない名護本人は、
自らのスタイルの課題を認識しながらも、
修正することが出来なかったのかも知れません。
もっともこの辺りの修正は、選手個人で行うには限界があります。
こうした壁にぶつかった時こそ、外から選手を見る立場、
会長やトレーナーの手腕が問われる場面だと思いますが、
残念ながら当時の白井具志堅ジムには、それが出来ませんでした。
或いはジム側も名護のセンスに目がくらみ、
修正すべき部分など見いだせなかったのかも知れません。
その後何とか2度めの世界挑戦までこぎ着けますが、
王者・徳山の前になすすべなく完敗…。
試合後に具志堅会長が「根性が足らん」という内容のことを吐き捨てていましたが、
全くのナンセンス…「名選手必ずしも名監督ならず」の典型ですね。
その後の移籍に関しては個人的には英断だと思いましたが、
移籍先でもその才能を開花させることは出来ず、
引退の時期をも見失ったかつての天才は、
現在も細々と現役を続けています。
僕はここ数年の名護のボクシングを見ていませんので、断言はできませんが、
年齢的にも、現在の立ち位置を見ても、
引退のタイミングを見誤った感は否めません。
世界戦で壁にぶつかった時に修正できていたら…。
タラレバは禁物だと分かってはいても、
松倉戦でのあまりに鮮烈な輝きを思うと、
未だに惜しむ気持ちは燻っています。
松倉戦でのあの右フックを目に焼きつけた僕の中で…。