GO TO トラベルを利用した九州ドライブから帰宅した4日後の、2020年11月15日は、急遽、午前7時から、京都の家内の実家に車で向かいました。と言うのは、2019年の年末を京都で過ごした後、2020年の元旦に長男家族と京都から広島に帰って以降、まさか!まさか!のコロナ禍で、通常であれば、ゴールデンウィークやお盆には、必ず帰省していた京都の実家も、高齢の義母が居る場所に、既に保菌者であるかも知れないリスクを冒してまで、安易に帰省するのも憚れる状況でした。

 

しかし、これから冬場を迎えるに当たり、益々のコロナの蔓延期を予感して、焦燥感が募って行きました。そこで、行くなら今しかないと、長男家族と次男家族に個別に電話して、2020年11月14日には、長男がGO TOトラベルを使い来京。2020年11月15日は、私達夫婦と、当時、京都に在住していた次男家族が家内の実家に集う事にしたのでした。家内も再三に渡る実母からの「帰って来いコール」に対して、何度もコロナの脅威を説いたものの、思った程には理解が進まず困っていました。

 

それでも、暖簾に腕押しではありませんが、その都度、「その内には行くからね!」と言う、はぐらかし戦略で凌いでいましたが、テレビに登場する識者の、コロナの再燃の兆しだったり、冬場には、必ず来ると言われていたコロナの再爆発の危険性を鑑みて、この機を逃せば、最悪、後悔が残るかも知れないと決断して、当初は家内が単独で帰省する事も考えましたが、運悪く罹患する事態になった場合には、結局は寝食を共にする私にも罹患する事は必至である事から一緒に帰省する運びとなりました。

 

2020年11月15日に、京都の実家に帰省してからの私は、極力、義母や義弟と食事以外の接触は避けて、11月16日は2階にある寝間に閉じ籠り、ネット環境が厳しい中、辛うじての4G接続でのネット視聴と、事前にDLしていたAmazon prime videoの視聴で、多くの時間を費やしていましたが、広島に帰宅する11月17日は、直接的な帰り道ではありませんでしたが、絶世の美女と持て囃された歌人である小野小町に謂れのある、京都市左京区市原の小町寺(補陀洛寺=ふだらくじ)に立ち寄りました。

 

更には、陰陽師で著名な安倍晴明を祀る、京都市上京区清明町にある「晴明神社」にも立ち寄って、京都南インターから帰途に着きました。小野小町に関しては諸説があり、私が訪れた小町寺(補陀洛寺=ふだらくじ)に関しては、かつては絶世の美女であった小野小町が晩年、かつて父親が住んでいたと言う同地で、井戸に映る老婆の姿に愕然として嘆き悲しみながら亡くなります。この補陀洛寺には「姿見の井戸」と言う湧き水の跡もあり、「小野小町老衰像」と言う像も安置されています。

 

文献によると、死んだのち、彼女の遺骸は埋葬されずに放置されていた様で、ある時、近くを通りがかった僧侶が、「あなめ、あなめ=あぁ目が痛い」と言う声の場所に行ってみると、ひとつの髑髏が転がっており、その目の穴からススキが生えていました。その髑髏の主が小野小町であったそうで、その髑髏が転がっていた場所(ススキが生えてくる場所)は特定されている様で、今でもススキが生えて来るそうです。それは「穴目のすすき」と言う逸話で遺されているものですね。

 

当時は、死体を埋葬せずに外気に晒して、自然に還す「風葬」が、一般的だったので、小野小町の髑髏が転がっている、情景になったのでしょうね。最近、京都市内にある「千本通り」の謂れを知る機会があり、諸説はあるのですが、千本通北大路を東に入ると、船岡山と言う山があり、この船岡山の西麓は、かつて「蓮台野」と呼ばれた葬送の地で、都から死体を蓮台野へと運ぶ際に、死者を供養するために千本の卒塔婆を並べたことから千本通りの異名がつけられたというものでした。

 

別の諸説は、千本の桜であったり、千本の松であったりと、割と受け入れ易い説だったりするのですが、「道の両側に千本の卒塔婆が立ち並んでいた」とする方が、当時の風葬と相まって、私の中では、より信憑性が増したのでした。最後に、小町寺(補陀洛寺=ふだらくじ)の境内には、様々な形状をした墓所が、所狭しと並んでいて、見方によると、不気味とも感じられる場所ではあったのですが、いつもの流れで「お墓」も含めて、撮りまくったのですが、自主規制する事にした次第です。

 

 

以下は、補陀洛寺の様子です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小野小町の慰霊塔です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下は、晴明神社の様子です。

 

 

晴明神社のバス停です。