高校1年生の時に、少林寺拳法を習う条件として始めた新聞配達が、バイトを始めたのをキッカケでした。最初は夕刊だけでしたが、その内には朝夕刊にまで幅を広げます。年末には、朝刊と夕刊の間の時間を使って、少林寺拳法の門下生繋がりの紹介で、郵便局の小包の配送まで熟したものです。高校2年生になると、時々、学校を仮病で休んでバイトをする様にもなります。当時、広島駅の近くに「立ちんぼ」専門の場所がありました。早朝に、その場所でブラブラしていると、声を掛けられて現場に行く日雇いですね。

 

その中で特に印象に残っている日雇いバイトは、山陽新幹線の工事現場と、マツダ(東洋工業)の工場内のバイトです。新幹線の工事現場では、恐怖の体験でした。日雇いに安全帯を貸与してくれる事もなく、新幹線の橋桁に溜まったゴミを箒で落とすと言う作業でしたが、地上高10m以上の場所では、到底、中央付近のゴミまでは落とす事は不可能だったので、監督からボロカスに怒られたものでした。一方で、マツダの工場内のバイトは、ベルトコンベアーのキャタピラーを交換する仕事でしたが、当時は、まだ17歳だった事もあり、かなりの優遇を受けました。

 

バイトは土日の2日間で、バイト料は昼食付きの5,000円でした。当時、17歳だった私に与えられた仕事は、スイッチをオンオフする係でした。マツダの監督の合図で、スイッチを入れたり切ったりするだけの簡単作業だったので、鮮明に覚えているのですね。その帳尻合わせは、成績表を送って来そうな日に、自宅のポスト前で待機して、郵便を受け取ったら、蒸気で封筒の糊を剥がし、出席日数をインク消しで改竄すると言う不良高校生でした。とは言え、改竄したのは各学年で1回の合計で2回ですね。(同じ学期内での犯行だったので2回で済んだだけの話でした)

 

高校時代に引き続き、進学前には、下宿先探しを母親に丸投げして、広島市南区出島の鉄工所で、鉄筋材の仕分けのバイトをしていました。大学に入っても、それは続きました。最初のアルバイトは下宿先の奥さんに紹介された洗濯屋さんでしたが、その内には、アルバイト斡旋所に入会しました。最初に紹介されたバイト先は、四条通りを南側に少し入った場所にあった中華料理店だったのですが、その主たる仕事は出前の配達でした。しかし、配達は毎日ある訳では無いので、それ以外の時間では、毎日、豚骨をタワシを使って素手で洗浄すると言う仕事でしたね。しかし、日を追うごとに、何とも言えない臭いが、手に染み付いてしまい、かなりナーバスになったものでした。

 

その上、ドラマで見掛けるような、毎回、出前に行く度に、来るのが遅いとか、ラーメンの汁が少ないとか、注文したものと違うとか、色々と言われて、更に前出の変な臭いが染み付いてしまった事で、辞める事にしました。(その臭いは、中々落とす事が出来ず、困ったものでした)次にお世話になったのは、京都大学の近くに、百万遍と言う交差点がありますが、その近くに京都学生相談所と言う施設がありました。その施設の業務としては、京都に住む学生にアルバイトを斡旋する事を主たる業務としていました。当時、運営していたのは、財団法人 内外学生センターでしたが、構造改革の流れで日本育英会等と統合し、平成16年に独立行政法人 日本学生支援機構になったそうですが、その際、残念な事に合理化のため学生相談所は廃止されたそうです。

 

私が学生をしていた頃の京都は、京大生と言えども、家庭教師等々の条件の良いバイトを得るのは難しい状況でした。聞いたところによると、真剣に家庭教師をしたいのであれば、京都市内から出て、私鉄の沿線で探すのが早道と言う事でした。ですから、京大生も学生相談所のお世話になっているのが当たり前の事でした。京都学生相談所が一番得意?としていたのは、短期バイトであったと言うのが記憶としてあります。私も、時々エントリーして、例えば、祇園会館で着物の展示会があるとして、その椅子運びだけの2時間バイトとかですね。当然としてバイト料も僅かな金額でしたから、帰りに王将で食べて終わりと言う事も多々ありました。

 

京都学生相談所が斡旋するバイトのメンバーに選出される方法は、実にシンプルでした。予め、登録時に貰った登録証を、エントリーしたいバイトの箱(だったかはハッキリとは覚えていません。一応、箱と言う事にしておきます。笑)に入れておき、応募者が多数の時には、職員による抽選会が行われると言う方法でした。少ない場合には、追加で募集していました。抽選会は、職員の方が登録証を箱から無作為に取り出して、一旦、登録証を裏返しにして、トランプを切るようにシャッフル。それをデスクの上に並べて、募集人数分の登録証が並んだところで、裏返して、こんな風に読み上げるのでした。「◯◯大学◯◯君!」つまり、呼ばれた者が、エントリーの権利者って話ですね。バイトにあぶれた学生の登録証は洗濯バサミで、上部の紐に吊っていました。

 

ある時、京都学生相談所に行くと、館内が何故かザワついていました。ザワついていたのは、中期のバイトの募集に対してだと判明します。その待遇としては、昼飯付きで3500円と言う、当時としては、破格とも言える条件のバイトでした。しかも、結構な人数の募集でした。そのバイトと言うのは、島田陽子主演の映画「将軍 SHOGUN」の足軽役のエクストラのバイトでした。私も当然応募しましたが、上記の抽選で漏れて、残念ながら選ばれませんでした。本当に悔しかった記憶があります。私にとっての京都学生相談所は、あくまでも短期バイト目当てでした。前出の、着物の展示会の椅子の搬入や、スーパーの棚卸しの補助要員とかの、直ぐに現金で貰える仕事ですね。

 

そんなバイトの中でも、一番長く務めたバイトに「貸し物屋」がありました。仕事の内容は書いて字の如しで、物を貸す仕事ですね。レンタルショップとも言えましたが、貸す物は多岐に渡っていると同時に、その場に行って設置し、終われば撤収することを主たる業務としてました。私がバイトしていた会社は、京都市左京区の岡崎公園の近くにあった京〇社でしたが、その取引先は、蹴上の〇ホテル(現ウェ〇〇ィン〇ホテル京都)と、〇ホテル京都八条を取引先に持っていました。どちらのホテルにも出入りしてましたが、2つのホテルの従業員の質(出入り業者に対する対応)には、かなりの違いがありました。

 

両者の従業員を比べると、明らかに京都八条口のホテルの従業員の方が、根が暗く陰湿だと感じていました。その違いを、京〇社の社員の間では、以下の理由で違いがあるのだろう。と話をしていたものでした。それは、蹴上のホテルの宴会場は、京都市内が見渡せる風光明媚な、ホテルの上階に設置されており、宴会場のスタッフにも、大凡の時間や四季の移り変わりを、自分の目で確認する事が出来るのに対して、京都駅の八条口にあるホテルの方は、宴会場が地下にあるので、時計を見ないと時間を確認する事が出来ないだろうから、人間が腐って来て陰湿になるのだろう。と言う内容でしたが、バイトの私も、その説はあながち間違いでは無いと思っていたものでした。

 

蹴上のホテルには豪華なパーティー会場(〇〇殿)があり、そのパーティーに合わせて、例えば、誰かを祝うものであれば、ステージの上部に予め制作した大型の横長看板を設置して、終われば撤去したりする仕事や、パーティーに屋台が必要であれば、簡易の屋台(うどんや蕎麦)を設置したり、撤去したり、京都らしい床几と言う一畳程度の台に、赤い毛氈を敷いてお茶席を演出したりしてました。その時には、あまり搬入に時間を取られるのも従業員の心象を悪くするので、一畳サイズの床几を何枚も重ねて、肩に載せて、決して、人や壁に接触させてはならないと言うプレッシャーの中、狭く入り組んだホテル内を往復したものでした。調子者の私は「兄ちゃん!力持ちやな!」と煽てられ、その所為で右肩を壊してしまいました。笑

 

仕事はホテル以外にも様々あり、ある時、とある個人のお宅にテントを張りに行った事がありました。その日は、生憎の雨模様だったのですが、その個人宅の築山に、運動会で使用する様な折り畳みテントを張ると言うのが、その主たる仕事でした。その個人宅と言うのは、故大川橋蔵氏(銭形平次)の私邸でした。その時に張ったテントと言うのは、その年の祇園祭りの稚児に、大川氏の御子息が選ばれた事から、取材を受けるための取材陣のテントでした。大川橋蔵氏は、弟子と思われる人から、先生!先生!と呼ばれていましたが、キリリとした銭形平次のイメージからは程遠い、洒落た眼鏡をかけた、弟子の呼び掛けに対して、終始、和かに接する御仁でした。

 

それから、貸し物屋のバイトが、一番長続きしたのには、理由がありました。当時は、運転免許は持っていましたが、自分の車は当然として持っておらず、彼女と遊びに行くにもレンタカーでしたから、とにかく、運転がしたくて堪らなかった時期でした。そんな中、京〇社では、ホテルと会社や、山科区にある倉庫の間を、会社の軽トラで、運転させて貰える事で、モチベーションが爆上がりしていた事が大きかったのでした。それに、時々、残業となった時には、会社経費で、近くの料理屋でガッツリと晩飯をご馳走様になる事があり、その待遇に満足していたからでもありました。それに、左肩を壊すまでに、煽てられて頑張った事で、京〇社には〇〇君が不可欠と、頼りにされた事も大きかったのですね。