冬のソナタが爆発的に日本でブレークした頃の話です。その頃の私は韓国ドラマは当然として、お隣の韓国の事に関しても、無知というか無関心でした。むしろ、スポーツで韓国戦となると日本に対して敵愾心を剥き出しで来る韓国メディアに対して、一種の反感すら持ってた気がします。そんな頃、私は1ヶ月間の出張から帰任して会社に出社した時、事務所に見慣れない青年を見つけ、その彼が不思議なくらい、事務所に溶け込んでる状況に唖然としたものです。事務員から聞くところによると、彼は韓国の有名大学を卒業し、横浜の会社で仕事をしていたところをスカウトされ、うちの事業所に配属されたとのことでした。

 

その時の私は、まだまだ様子見と言う感じで、未知の青年とは、一定の距離を置いたまま、言葉さえ交わしていませんでした。暫くして、彼は韓国へ残していたフィアンセと結婚する為に、一旦、帰国の途につき、私も直ぐに出張だった為、彼と次に会ったのは、結婚後に改めて出社したタイミングだったのでした。その時の彼は、韓国海苔を始めとした、名産品を土産に持って来てくれて、上司や同僚に振舞ってくれたのですが、私は、韓国の食べ物と言えば、焼肉だろ!的な、今考えても、随分と横柄な態度で接していて、さぞかし悪い印象だった事と思います。その後、彼と一緒に仕事をして行くのですが、そこで彼の勤勉さ、優秀さに度肝を抜かれたものでした。

 

日本語検定は既に1級。仕事で使う専門書は日本語で読み下し、しかも、一度読んだら忘れないと言う、信じられないパフォーマンスを有し、資格的にも、韓国でも同じ業種だった事もあり、韓国での資格も全て取得済みと言う秀才でした。日本の資格も受ける度に合格していました。語学も、母国語、英語、日本語の3カ国語をそつなくこなしていました。徐々に、仕事での信頼関係も出来て、さらにはプライベートでも親しくなり始めた頃、彼がある事を説明してくれたのです。それは、韓国では私の様な年上の人間とは、気軽に話はしないし、決して一緒に遊ぶということもしません。いつも遊ぶ相手は同級生で、年下とも遊びません。恋愛対象としては年下もあり得ますが、通常は同級生だけですね。との話でした。

 

そこで、私は、日本では気持ちが通じ合えば、年齢は関係ないよと言ったものでしたが、今思えば、それが韓国の教育の根底にある儒教の考え方と理解できますが、その時はそうなんだくらいの認識で終わったのでした。彼は、他にも韓国は焼肉ってイメージがあるみたいですが、実は韓国はスープ文化なんですよ。スープを飲みながら、ご飯を食べる。これが食事のスタイルですとも教えてくれました。その後、事情があって彼は退職することになるのですが、彼の最後の仕事が松山市の石油会社だったのですが、たまたま一緒に仕事をする事になったので、仕事の最終日に、出張仲間と計画して、サプライズで送別会を開いたものでした。その後、彼は韓国に帰ったのですが、何年か経って、偶然、メッセンジャーで繋がった際、近況を聞いたところ、財閥系の韓国企業に再就職し、樺太(サハリン)に天然ガスのプロジェクトで単身赴任してるとの話でした。

 

それを知って、頑張ってるんだなぁと喜んだものでした。その後、会社に日本での就業証明書を発行して欲しいとのメールが、灼熱の地カタールから来たのですが、その時は、気温が50度だと書いていました。マイナスの世界から今度はプラス50度って凄い!と仲間内で話題になったものでした。カタールでは、日本企業も参画する天然ガスのプロジェクトの仕事をしてると書いてありましたね。このメールを最後に再び連絡が途絶えます。そこで、改めて思った事は、彼が最初に事業所に来た時、会社には韓国に知識のある人は、韓国に赴任経験のあったK係長だけだった事もあり、殆どの社員は、私と同等の意識レベルだったと思います。しかし、巷では既に爆発的な韓流ブームで来ていたので、私達だけが、そのブームに乗ってない亜流の人間だった訳ですね。会社的には、中東各国にはODA絡みで赴任した事がある人が多数いましたが、韓国には前出のK係長だけでした。

 

しかし、会社を含めて、彼を迎え入れる私達にも韓流ブームの波が到来していたならば、彼との関係も、より親密に、高い次元で結実していて、同様に会社のフォロー体制も、彼が望むカタチで対応出来た事で、彼も辞めると言う選択に行き着かなかったのでは?と真剣に考えたものでした。彼が退職した理由は、入社時の意気込みとしては、とにかく色々な経験を積みたい!給与面は低くても特に考えていません。とにかく様々な経験を通じてスキルアップを果たしたいです。それが日本に来た理由です。と述べたそうですが、それに対して、会社が彼に要求したことは、通常の生産性(工事に従事するひとり)に寄与する部分だけでした。結果、彼は落胆して退職を選んだのでした。

 

彼が来日した当時は、まさに「冬のソナタ」がブレークしていた真っ只中でした。繰り返しになりますが、私も含め、そのブームに乗れていたならば、彼との関係性もより充実したものになっていたかも?という自責の念にも似た、後悔があったことは事実です。しかも、会社の対応であっても、より彼の心情に即したフォロー出来ていたのでは?とも考えました。彼は、横浜の同業他社にいた時に、横浜事業所の所長が自らスカウトした逸材でしたが、入社後、横浜から、出張工事課と技術部が同居する事業所に転籍させられた挙句。横浜事業所の所長からは、「技術部に推薦」との一文があったにも関わらず、時期的に繁忙期だった不幸が重なって、出張工事課に放り込まれて、その技術力の高さから上司が手放さず、遂には、なし崩し的に出張工事課の所属となってしまったのでした。

 

彼が退職してから、多くの同僚が韓国ドラマに嵌って行く訳ですが、その頃には、様々な媒体を通じて韓国文化への理解が進み、風習や習慣も、ある程度は知識として積み上げられて来ていました。通常の会話では、彼も、奥さんも日本語検定は1級であり、コミュニケーションに苦労する事は無かったにしろ、こちらから、歩み寄って、ハングルを理解しようとするくらいの姿勢は必要だったと感じています。その後、再び、2009年にメッセンジャーで繋がった際には、彼から、また日本に遊びに行こうと考えています!その時は、宜しくお願いします!と言われた事から、彼と関係の深かったメンバーに声を掛けて、具体的なスケジュールのメールが来るのを待っていましたが、彼に突発事項が発生したのか、結局、実現には至りませんでした。その後は、再び、音信不通となり現在に至っていますね。